吸血師Dr.千水の憂鬱⑤夏山訓練というタイミング
第一章 山岳警備隊の普通じゃない日常風景
第五話 夏山訓練というタイミング
竹内は記憶をたどりながら、昨夜寝る前の記憶がない事に思い当たる。自分が夕飯に何を食べて、何時にベッドに入ったかという記憶がまるでない。狐につままれたような気持ちで身体を起こすと、ヤケに身体が軽い。アレっと思った瞬間、自分が見慣れない服を着ている事に気づく。
「突風をいい事によく眠っていたな。その様子じゃ、久しぶりにぐっすり眠れたか。」
誰もいないと思っていたところに突然横から低く落ち着いた声がして、竹内はわずかに目を大きく見開くと、自然に声の方向に視線を寄越した。
(ほう・・・)
竹内の静かな反応に千水は僅かに目を細めた。
千水がこれだけ至近距離の、しかも死角から話しかけたのはわざとだったが、こんなに落ち着いた反応が返ってくる事は、あまりない事だった。
至近距離で突然声を掛けられた時に、ビックリして飛び上がるような反応をするのは東洋医学的には心臓周辺の血のめぐりに問題があるからだった。
世間的にわかりやすく言えば度胸の問題だ。
「・・あ、千水先生・・・。」
声の主を認め、竹内はつぶやいて小さく頭を下げる。
今年、竹内を含む四名が新たに山岳警備隊員としての任を受けて着任した。ト山県南部には、雄大な鷹山(たかやま)連峰がそびえ、年間を通して多くの登山客で賑わっていた為、1960年代に山岳救助隊を強化した形で警察による警備隊が結成されたのが始まりである。
峰堂、刃沢(やいばさわ)、熊(くま)島(しま)の三か所に常駐拠点を置き、基本的にはこの峰堂を大拠点に常駐8名、兼務6名の計14名で山岳警備に当たっていた。ただし登山シーズンは、登山客が広範囲に及ぶ為、残りの2拠点にも常駐2名、兼務各1名の3名体制で3拠点連携を取りながら回していた。その為夏山訓練の今は、峰堂センターには常駐4人、兼務4人、それに新人隊員を補充した形が取られていた。
常駐隊員以外の兼務隊員達は、普段はふもとの交番や警察署で警察官として勤務している。竹内も普段は高市警察署で勤務していたが、春先に一旦、山岳警備隊の任を受けた新人の入所式が行われ、その時、センター職員の千水とも顔を合わせていた。
その後4月に行われた春山ミニ訓練の際も医務室にお世話になった事はなかった為、竹内と千水がまともに言葉を交わすのは今日が初めてだった。今回は夏山遭難訓練で、新人四名が峰堂常駐センターに集合し、8日間の実地訓練を受けていた中での四日目に起こった事故だった。
「昨日の事は覚えているな。まだどこか傷むところはあるか。」
千水は、竹内に名前を呼ばれた事にうなづく事で返事しながら具合を確認する。
「あ、いいえ。・・あの、打ち身の表面的な痛さ以外は特には・・。」
腕と足を曲げ伸ばしして確認しながら、竹内は答えた。
「左肘は曲がるか?違和感は?」
「・・・いえ、少し痛みますがちゃんと曲がります。」
竹内はベッドから下りて、両腕を回したり、その場にしゃがみ込んだりして自分の身体を確かめてみる。
「・・昨日、左肘は骨やっちゃったかな~と思っていたんですけど。大丈夫だったみたいです。」
「脱臼していたぞ。昨日、お前が一瞬目を覚ました時に説明はしたんだが半分寝ていたようだったからな。大石分隊長に手伝ってもらって一緒に整復を行った。お前が寝ていたから、正しい位置に戻ったかの確認は、今になるがな。」
千水は若干の皮肉を込めて「お前が寝てたから」というのを強調してみたが、
「え?ああ、あれっ・・・?オレ、あ、いや、ボク、昔膝を脱臼した事があるんですけど、その時は、骨を元の位置に戻してからも、三、四か月くらい、かなり痛かったんですけど・・・。」
千水の皮肉に気づく様子もなく、竹内は再び左腕を曲げ伸ばしして不思議そうに首を傾げている。
「ならいい。膝もうまく骨を避けて頭と体を守ったな。ひどい打ち身だったが、ぶつけたのは筋肉だ。鍼で大体の炎症を収めておいたが完全に痛みと炎症が取れるまでには数日かかるだろう。今日一日は大事を取って激しい運動は控えて、軽めの運動で身体の様子を見てみろ。
動いてみて痛みや違和感が増すような事があれば診察室に来い。分隊長には伝えておいた。今日のところは湯船につからず、短時間のぬるめのシャワーにするように。」
淡々と指示を出す。
「あ・・ハイ!」
竹内はあの時、突風で岩に身体を叩きつけられる一瞬の間に、咄嗟に身体をよじったのだ。客観的に見れば、自分の未熟さで訓練中に事故を起こしてしまったのだから、本来ダメダメなはずで、褒められるところはないのだが、千水に上手く守ったと言われて竹内は少し気分が上がるのを感じた。
「そこに座れ。脈をとる。」
「あ、はい。」
千水に言われベッドに腰を下ろすと、千水もキャスター付き椅子に座り、二人向き合った状態で、自分の膝に置いた両手首を千水に取られる。今まで病院に掛かるのに脈を取られたことさえなければ、両手を取られたことはもちろんない。脈を取ると言って両手を掴まれた意外さに、竹内は呆気にとられた。
「え?あの・・・。」
「シッ!静かに。肩の力を抜いてリラックスしろ。」
無表情で、抑揚のない声に制止されて、竹内はこれが千水の脈の取り方なのだと理解する。
千水は目を閉じて脈を感じる。両手首に載せた三本の指が人差し指、中指、薬指と不規則に竹内の手首に押し付けられる。
(うん、脈は大方正常。打ち身の炎症もだいぶ治まっている。しかしやはり左腕の血流が少し弱いな。念には念を入れてアレをやっておくか・・。)
そう考えながら、千水は毎年の新人訓練で繰り返される恒例の大騒ぎを思い出し、今から起こるであろう定番の反応に内心げんなりする。
本来は毎年、新人らにとって初めての本格的訓練である夏山訓練の中日(なかび)に、千水の紹介が予定されていた。医療訓練と称しての、千水の特異な体質を新人隊員ら全員まとめて実際に目で見て理解してもらう、という主旨の項目だった。当初の予定では昨晩だったが、あの事故で竹内が運び込まれてきてしまった為行えなかった。
明日からは「ビバーク」と呼ばれる遭難現場での緊急キャンプの訓練をするのに外での露営が予定されている為、医療訓練は今晩に順延されていた。
この「医療訓練」という名の自身の正体を公開する事に対して、千水は、毎年の事とは言え、いつも異物を見るような、気持ち悪い物を見るような、怯えるような、ドン引きの視線のさらされ者になってきた。
その為、山岳警備隊を続けられるか新人達自身が見極める為に春山訓練では千水はただのセンター医療職員として紹介されていた。山岳警備隊は鍛錬も相当厳しかったが、仕事は更に過酷を極める為、続かない者は短い春山訓練を一度経験しただけで早々と異動願いを出す事も珍しくなかった。
警察の仕事には、色々な機密事項を含む状況が多い為、隊員達は皆守秘義務契約を結んではいたが、続かない者に対して、余計な情報は最初から与えないに越したことはない。
だからこそ、千水が本当の意味で新人達と知り合うタイミングは毎年夏山訓練と決まっていた。
慣れれば皆、それなりに受け入れてくれはするが、結局それには、桁外れの治療効果の他に、長い時間と千水の忍耐力がどうしても必要だった。
あのさらされ者の気分は、できるなら一回でまとめてしまいたかったし、見る新人側にとっても、大先輩らが同席の上、大人数で見る方が集団心理が働いて安心する為、拒絶反応は若干和らぐのだった。その為、夏山訓練は毎回新人が全員まとめて峰堂に会して、千水の講義を受けてから後半に班分けされて他の二拠点での訓練も行うという形が取られていた。
千水にも警備隊側の気遣いがわかってはいたが、今、自分の目の前にいる若者の左肘は実際、不具合を起こしている。気がスムーズに動いていないという事は、コンマ数㎜の単位であっても、骨がずれているということだ。
脈を取りながら10秒ほど逡巡したものの、何事もないかのように無言で竹内の両手を離す。そして、千水はラボの洗面台で自身の診察前ルーティンである歯磨きを始めた。
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