吸血師Dr.千水の憂鬱㉕救いの手、その名「おふくろ」
第25話 救いの手、その名「おふくろ」
竹内ら二番隊が一時間余りで現場に着くと、先発隊の野村隊員がちょうどテントを近距離で二つ張り終えたところだった。
柳谷小隊長の下に駆け寄ると、傾斜の陰に隠れて見えなかったが、男性の遭難者が一人横たわっていた。もう心肺停止が確認され、人命救助処置も試みられた後だった。それは通報で聞いた「意識が混濁した人」のようだった。
他にも具合が悪くなった男女一名ずつと、転倒して右足を骨折した男性らには応急処置が既に施されていた。三人は、かなり弱っている事が見て取れたが、後の四人は男性三名、女性一人で疲労の色が見えるものの、比較的元気そうだった。
竹内は、宮森の指示で、ザックから収納袋を取り出すと、宮森と出町が手早く亡くなった遭難者を袋の中に収納する。ザイルと呼ばれるロープで縛り、ヘリでの搬送準備をした。悪天候でヘリが飛べるようには思えなかった為、先発の柳谷小隊長、野村隊員が、まだ歩ける四人を連れて先に下山することになった。今元気な4人まで、このままここで消耗し続けると、情況が更に悪化するだけだからだ。雨は一層激しさを増す。
二人で四人をケアしながらの下山も大変だが、残される方は更に過酷である。しかし、ここで新人の竹内を先に下ろしてしまうと、今度は四人のケアもままならなくなってしまう恐れがある。それは苦渋の選択だった。竹内にとっては、これが初めての大きな遭難救助だったからだ。
容態が悪化中の三名とご遺体に隊員三名。このままでは待機してヘリを待つしかない。
野村隊員がセットしていってくれた三人用のテント二つに、とりあえず着替えなどの便宜上から、ご遺体と女性を一つのテントに、後の男性遭難者二人と一緒にもう一つのテントに分けて避難と着替えをさせると、女性のテントに出町、男性テントに竹内と宮森が入る。
宮森に促され、竹内は携帯で千水に遭難者達の状況を報告。遭難者の状況を聞いた千水から中度の低体温症を起こしている男性にまだ発熱を始めていない新しいカイロで全身をさすりながら、カイロが熱を持ち始めたら「おふくろ」を、首の後ろ、脇、鼠径部、足の裏の各部位に当てがう指示が入る。
「おふくろ」は千水が考案した低体温症対応道具であった。
と言っても、それはただの分厚く、手首の上まですっぽりカバーできる長めの登山用手袋だった。内側は布地、表面は皮で覆われ、手首のところにはベルトがあってキュッと締める事ができた。指先の先端部分には切れ目が入っていて蓋のようになっていて、指だけ出した状態にも出来た。
低体温症は、長時間身体が冷える事で発症するが慎重に扱わなければいけない。普通の感覚で慌てて温めると、かえって身体にショックを与える危険があるのだ。人体が内臓温度を下げるのも、一番大切な腦を守る為の一種の防衛反応だから、温め方には細心の注意が必要だった。
発熱を始めていないカイロを使用するのは、発熱していなくても冷え切った身体よりは暖かく、身体と摩擦させることでカイロの発熱を促せる為だった。
しかし低体温症の場合、そのカイロの熱が直接伝わると火傷の可能性もあるので、既に袋状になっていて、適度な厚みがあり、皮張りで熱伝導があまり良くなく、口が巾着袋のように緩めたり締めたりできる「おふくろ」はうってつけだった。足の裏を温める時には、足指に手袋の指蓋を引っ掛ける事もでき、手袋のカタチなのがちょうど良かった。その為、この登山用手袋は、ここト山県山岳警備隊での遭難現場に置ける緊急の低体温症対応に一役買っていた。
この厚手の手袋に入れたカイロは少し頼りないくらいの熱しか伝えてくれず、低体温症を起こしている遭難者の身体に負担がかからない適度なぬくもりを与えてくれるそれはまさに、寒い時にはぬくもりをくれ、熱がある時にはひんやり気持ちいい「母の手」のようだと言う事で、元々は名前などなかったのが、また「*やマニュアル」同様、ネーミングセンスが残念な誰かによって、手袋の「袋」と「母の手」を組み合わせられた「おふくろ」ですっかり定着してしまっていた。
*「やマニュアル」は第19話に出てきたエピソードで、歴代の山岳警備隊員たちの努力の結晶とも言うべき「山の取扱説明書、山のマニュアル」略して「やマニュアル」と呼ばれるものが山岳警備隊の中に脈々と受け継がれているのです。本文の「やマニュアル」をクリックしていただくと、19話に飛べます。