無性にドーナツが食べたくなるように、「この気持ちを文字に起こしたい!」という衝動に駆られる時が時折ある。久々の体調不良により強制的に自由を奪われた結果、身軽に行動できることへの尊さを感じている。熱が38度もありやがる。人には人の白血球。
何か悲しいことがあった時も嬉しい時があったときも 変わらずあの店のコーヒーは美味しいし、ケーキは程よく甘い。 「不変が心地よくない時もある」ということを誰も教えてはくれなかったが、なぜか私は知っている。
バナナを最近よく食べる。 甘いものが元々好きなのだが、小さい頃母親がテレビを見ながらつぶやく小言を聞くにあたり、第三者は歌声と体型にはなぜかものすごく厳しいんだと幼心ながら思わされたので、チョコレート食べるならこれ食べとくか、ぐらいの気持ちで食べている。クイズ番組を見ながら「こんな問題で100万もらえんのか〜!」と言っていた母の声が懐かしい。でもそうは言ってもね、たまにはチョコレートぐらい食べたいよ。
去年のnoteを見返していたらこんなことを書いていた。 それでもやっぱり、「生きていかなくちゃいけない」というか 「生きていたい」とある種脅迫のような、呪いのようなものに囚われている。 …いやずっと同じこと言ってんなぁ。たしかに呪われてんな〜 と思い 先月書いた歌詞を見返してみると この世界に独りきり それでもなぜか僕ら 生きていかなきゃいけない
悲しい時には大体それが悲しいと認識する前に誰かにそれを共有したくなるので、インターネットと私は非常に相性が良いと言える。悲しいというか、虚しいというか。大体空っぽになる時は夜が多いそうだが、真昼にがらんがらんと音がする時もある。難儀かつ難解なのがThis is ハートなのだろう。 年末、家族でぼーっとテレビを見ていたら「この合成写真は誰と誰の子どもでしょう!?」みたいな、よもや2020年代にやっているとは思えない、気持ちが悪いコーナーが突如始まった。ゲストとゲストの顔写真で
betcover!!のフラメンコの歌詞、良すぎません? その横で妄言垂れている俺には 君達の愛が鬱陶しい 煙突の向きがおかしい 雛菊の向きがおかしい 笑う君の何かがおかしい 愛って基本鬱陶しいよなぁ〜と。 過剰摂取しても疲れるし、全く無いのも疲れるし。 緑黄色野菜に近い存在。 幸せを感じられる一年にしよう。節々で。 節々ぐらいがちょうど良いですから。 たまに消えたくなっては泣きながら泳いでいこう。
朝9:00に目が覚めた。 「今日は有意義な一日を過ごせそう!」と思ったにも関わらず ご飯を食べてそのまま寝てしまって今もう13:00前である。 「朝に起きる」という行為が小学生の時から苦手なので あまり気にはしていないが、それにしても少し損をした気持ちになるし、 「起きたい時間に起きれないって大人としてなんなん?」 という誰かからの声もうっすらではあるが聞こえてくる。 「でもテメーは午前3:30まで仕事できんのか?」 と隣の部屋から声がする。 世の中との共通項があろうがな
「なくなってよいものはもっとたくさんあるやろ」などとぼそぼそつぶやきながら、枕元に置いていたはずの携帯電話を探す。 昨日飲んだコーヒーの空き缶。 スーパーの特売(期限切れ)を知らせるチラシ。 「お前は誰の何やねん」と思わず言ってしまうような インターネットの罵詈雑言。 寝惚け眼で台所に向かうと、どこから入りこんだのか 小さい蜘蛛がスポンジの上を這いずり回っている。 自分より若い人が亡くなってしまうのが悲しい。ましてや自死を決断するなんて。 何故かわからないがもっとできる
楽しいことがその先にあるのは多いに結構なのだが、その楽しみが一個一個潰されていく(潰していく)悲しみの方が多いので、結局悲しい気持ちになってしまう。 自分が歳を重ねた結果、楽しみの希少性が高まってしまった。 すごく楽しみにしていたテレビゲームも、旅行も、ライブコンサートも 「あれ楽しかったな」「これ良かったな」と後ろを振り返ってつぶやきながら歩いている。 昔110円(税込)で売られていた"楽しみ”が、今じゃ1200円(税抜)で流通している。 不変でいるというのは本当に難し
父と二人で熊本に旅行に行った。 "息子と父、始めての二人旅行"といえば聞こえは良いかもしれないが、 特に会話が盛り上がるわけでもなく、爽やかな三月の空気とは裏腹に ボソボソと会話を繰り広げるいつも通りの二人がそこにいた。 それはそれで僕ららしくて、今思い出しても笑ってしまう。 「良い天気でよかったなぁ〜」 いつも"自分勝手な感想だなぁ"と思いながら呟く。 きっと干魃に苦しんでいる国にの人は燦々と照りつける太陽のことを恨めしく思っているに違いないし、第一"雨が悪い天気”とい
いやー危なかった。 2023年一月、世間の新年・立春華丸モードとは裏腹に、私の精神は海底の底の底まで落ちていた。 まぁこういう時に理由なんて無いもんで。 正月から39度近く熱が出たのもあるんでしょう。 健康な精神は健康な肉体に宿るとはよく言ったもんだ! 仰々しく言うと人生のアーカイブを付けようと noteこまめに更新していくつもりだったのに 気がついたら2023年も2月に突入していた。 しかしながらこの2月という中途半端な月が昔から大好きなので 調子も上がっていくでしょう
今年に入って環境が変わり、色々な人と関わることになったからなのだろうか? 自己解放を常にしている状態が毎日続いている。 大人になってから開いた記憶がない門を全開にして生活している。 その分、触れてはいけない、というか触れられたくなかった自分の弱いところや泥のような醜い部分とも対峙することになってしまった。 しかも全開にしている分、そこに入ってくるのは自分だけではなく、他者の言葉や気持ちも土足で入ってくる。 裸足にしてくれ。ヒールは余計痛い。 ただその分、楽しいことは楽し
なぜか福岡に行きたい。 今年になってからずっと思っている。 俺が大好きなバンド、NUMBER GIRLが福岡出身ということもあるのかもしれない。 今年の夏は北海道に行った。 東京のくたれびれた空とは違う北海道の澄き通った青空を見て「あぁ、この街は水色なんだなぁ」と思った。 今週は雨が多く、洗濯物が溜まっている。 コインランドリーに行くのは面倒だけど、不都合を不都合とちゃんと捉えた上で、愛していけるような人間になりたい。
人生で初めてギターを買った。 試奏をお願いするとき、「気づいたら俺は17歳だった風景」だった。 八月のような蒼く澄んだストラトキャスターと、少しくすんだ灰色とも水色とも言えるボディのジャズマスター。弾いてみた結果、ジャズマスターを購入することに決めた。 あと数ヶ月で20代は終わりを迎えようとしており、周りでは「これ以上年なんて取りたくない」といっている人もいるが、 年を取ることは悪いことばかりではない、と思う。 思考する時の解像度や、考えを言語化するときの精度が年齢と共に
横断歩道を渡りながらタバコを吹かす中年男性を見て関西に帰ってきたことを実感した。 奈良は相変わらず鉛色の空で、行き交う人々の言葉は東京と比べると訛りがすごい。(これは鉛と訛りでかけたかっただけやね。) 父と久しぶりの会話はいつもと変わらずどこかよそよそしく、それでいてどこか温かった。 きっとそれが父なりの愛というものなのだろう。 年月は時速200kmで目紛しく進んでいて、もうこの世にいない家族も多いのに、実家の様子は俺が子供だった頃から何一つ変わっていない。 そのことが
どうしてこうも壁にぶち当たるのだろうか。 いや、もはや自ら壁にぶち当たりにいっている、とも言える。 そのくせ当たったら当たったで「痛い!」と一人喚いている。 タチの悪い当たり屋である。 生きている実感が欲しいんやろか。 結局、俺は生きている、という存在証明が欲しいだけなのだろうか。 もっと楽に生きられるはずなのに、齢29歳にしてずっと同じことで悩み、苦しんでいる。 俺はこの世から離れる時、何を思うのだろうか。 何を残して死ねるだろうか ただ、一人でもいい、誰かの苦しみを