みなさん息してますか?
特に書きたいことがあったわけでもないけれど、なにかを書こうと思ってnoteを久しぶりに開きました。なにを書くかについても、いざ書き物をするぞって考え始めると思い至るのは今年の出来事についてばかりで、夢や幻で済めばな。と思うような人生の分岐点の数々をぼくは引っ掻き回してめちゃくちゃにしたので、もしこの世からなかったことになれますボタンがあれば迷わず押します。
今になって思いますが、自分には「特定の誰かと何かを一緒にしたい」以上の目標も希望もなくて、ただ生きていることが嫌になって、かといって簡単に「死ぬ」という選択肢を人間は選べないということを学ぶことによって、以前よりも一層、思考停滞、嫌々生存中☄って感じです。
「それは違う」とわかっていても、自分の愚かさを省みた時。果たして、自分のやることなすことの無意味や愚かさを知りつつ、自分は足を踏み出せるか? という自答に対して、現状は踏み出せないどころか。曖昧に日々を過ごし、内省風の自嘲と焦心でただ、燃え尽きてたつもりが燃え尽きることすらできず、生きることを肯定するために自分の愚かさを批判することで、自分の間違った立ち位置をを正当化しているだけの生きるゴミになっています。つまり、後退しているわけです。
なんのために生きているか、なんのために頑張るのか、なんのために、なんのために……というのがわからないわけです。中途半端に夢を見たままかえってこれない賭博ジャンキーと一緒。勝っている最中以外の出来事に目的意識がないので。
「生きたい、やりたい」という意欲が自分にないわけです。そんな自分がどうしてこの幸せな地獄(現世、今いる場所)に居られるのかという話になるんですが。世の中は結構慈悲深いし、狂ってるからとしか言えませんね。捨てる神あれば拾う神ありというやつがリアルです。
自由に使える時間というものはもっとも価値のある概念のはずなんですが、いざ自由を与えられた瞬間にぼくは何も意欲しなくなってしまった(賭博に勝つことでなく、賭博をすることが目的になっているということです)。
憂鬱は季節のせいだとか、そういう休息の時期が必要だって言い訳をしたり、誰かに励ましてもらってみたって、自分が今燃え尽きていて、活き活きとした暮らしのために動けないことを自覚して、賭場に出ない代わりに、おとなしくしているんだから、ぼくにぼくをどうにかする理由はないわけです。最悪ですね、コイツ。
実際、怠惰な人間一人の力では誰かを幸せにすることも、不幸にすることもできない代わりに、ただただ全社会の敵にならずに済む。自分の程度がたいしたことないということでもあるんですけど、誰かにダメージを与えてまで自分の利はとれないです。頭が狂っているので、自分の利は抛ってしまいますが。
最近、その加害妄想がひどくって。自分が誰かに何かしらの形で危害を及ぼすんじゃないかと、他人と係わることを避けていたりしたんですが。「ひとりは寂しい、にんげんは怖い」という気持ちが嫌な意味で共感できてしまうだけで、中途半端なままだらだら過ごすのは嫌だなぁと感じています。
実際のところ、自分が社会に根を生やすことはできたのか、できなかったのか。それを自分は望んだのか、そういうことを考えていると、過去に囚われてしまっているように感じますし、過去は自分だけのものなので、たまに思い出して苦しむのがいつまでも心地よくていいんですよね。過去の苦しみを味わうためだけに生きるくらいの気持ちでいたほうがいいのかもしれない。
いつまで過去と向き合えば、自分の次の選択に言い訳をしなくて済むのかわからない。言い訳をしたいから、生き方自体を難しくするというのがこれまでの自分には合っていた。でも、もうそういう生き方は辞めてしまわないといけない(賭博行為の禁止or破滅するまで賭博All-inで4ね)。
自分が生きていることを肯定できない人間は、どうすれば自分がただ生きることや、頑張ることを認めてあげればいいんだろうかって思うんですけど。誰かのためにおぼえた生き方を自分のためにどう使ってやればいいかなんて、それこそ誰かに支えてもらわないといけないよなって思うわけですよ。
考えていても仕方がないのはわかっているけれど、考えることで痛み自体を知覚しないようにしてきたのだから、考えずに動いてみるということがシンプルに恐ろしい。
対人関係において、ぼくは自分の言ったことや、相手の願いを全て本当のことにしようとするから努力はしてるつもりだけれど、見かけ上の頑張り程度までしかできないってのが本当の自分です。ぼくは嘘つきじゃない。単に能力が低いだけ。
でも、これまでの自分の行動や発言の多くは、誰かのための嘘ばっかりだったり、他人をその気にさせること自体が目的のものだったの? ってくらい、自分の天邪鬼っぷりと、刹那的な生き方は本当に終わってる側の天才です。褒めてませんよ。自己愛が歪んでいるので、他害的な結果に終わってるだけで、本当はみんなのことを大事にしたかったり、人間のための何かをしたいとか、役に立ちたいと思っています。でも、無能なので、多分できなさそうなんですよね。
吐き通せない嘘は他人を悲しませるだけでなく、愛情や信頼を枯らしてしまうから辞めておいた方がいいってのが、人生の学びです。今のぼくにはできないですが。
春も夏も秋も冬もみんな嫌い。誰かを想起するのは簡単で、新しいことをするのは難しい。
話は変わるけれど、戦争というのは恐ろしいものだ。という教育を受けてきた世代は昨今の国際情勢について何を思うんでしょうか。結構、20代の考える戦争と本音について関心があります。
ロシア・ウクライナの戦争にしても、イスラエルとパレスチナの戦争にしても、あまりにも自国の安全に距離がありすぎて、これを書いてるぼくには戦争が今起きている出来事という認識が薄いです。
テレビを観ないからだろうか。新聞をとらないからだろうか、インターネットでも戦争について調べないからだろうか。と、考えてみましたが全部ちょろっと見るようにしていたので、そういう感じのものでもなさそうです。
戦争について、戦史を読んだり、軍記もの、歴史ものの漫画はかなり好きな方で、そういうものをなんとなく読んできたり、重火器には興味はないけれど、文化史としての戦争についての興味関心は未だに根強いものがあると自負してるんですけど。
戦争について考えていることは余暇を持て余してない大多数の人よりは多いであろうぼくも、現代戦については、自分で考えることや感じることを放棄しているフシがありますね。情報をどれだけ漁ったとしても、結局何が起こるかは予想がつかないからじゃないですかね。
去年の秋や、今年の夏ごろまでは積極的にテレビのニュースを観ようとしてみたり、図書館で新聞を読んでみたりしてみたけれど、やっぱり日本は戦地ではないわけです。メディアの取り扱いも小見出しに留まっていますし、国際ニュースとかを日本語のメディアで漁るのは大変です。いっそのこと、毎日朝のニュースで各局が戦争の話でもしていてくれれば、戦争について関心が高まって、改憲護憲論について市井でも議論が交わされたりするのかもしれない。
でも、結局のところ。ぼくが言いたいのは「戦争が起きているという実感があまりにもない」ということなんですよ。
国内のインフレが結構露骨に進んでいて、なぜか飲食物の大きさが小さくなるサイレントナーフを繰り返してる。とか、外貨に対して円の価値が落ち続けているのをみたりするとウワーってなります。海外のおもちゃを買う気がなくなるので。(2.3万円くらいのものだと、ここ二、三年での値上がりが結構エグいです)
インターネット(主にツイッター、エックスなんて書きませんよ)でウクライナの惨状をみても、銃撃戦の動画をみても、ぼくがいるのは戦地ではないし、そもそもどういう経緯で露宇戦争が始まったのかもちゃんとdigってないあたり、心の底から他人事扱いか? でも、「クリミア半島関連のことでどうせ“侵略戦争”やろ」とか思ってるから調べることを放棄してるだけです。ウクライナが頑張って勝つまで外野は武器を供与したり、祈ったりする程度に留めておかないといけない。どういう感覚が正解なのかわからなくなってきた。
不謹慎な感覚ではあるけれど、多くの国の人がそれが「うちの国じゃなくてよかった」と感じているように錯覚してるんかなぁって思ったけど。平和ボケしすぎるとこうなるんやねとは思った。
よその国のどんぱちについて書いてると、集団的自衛権の話とかも拾っておくべき?
今年か去年あたりから出てる自民党の改憲案はひどいもので、あまりに酷くて目を疑ったから、改憲論について護憲派と改憲派についての議論をしているような本を読んだのだけれど、国際世論を考えた時、集団的自衛権について、それが必要って感覚はわかるんだけど……
結局、アメリカ(/中国)の都合のいいようにしたい人たち(経団連、銀行のひとら)の集まりという自民党の改憲案に対して、与党の足を引っ張りたい野党というイメージが強すぎて、世襲議員という膿が蔓延る前の政治家にあの世から帰ってきてほしいレベル。世襲よりかは、札束と派閥勢力のために戦ってる政治家の方が仕事はしてそう。
あまりにも酷い(実質一党体制の)国政、これ以上の悪評に憂いなしとでもいうように増税を繰りかえす頓珍漢な政府。陰謀論とか通り越して、これシンプルに官僚(省)同士がチキチキ・予算バトルレースしてね?って感じです。縦割り組織が派閥争いしてて、本当にやるべきことと、やらなくてもよさそうなことの分別がついてなさそう。ぼくがいうのもどうかと思うけど、それくらい、日本というもうほぼ沈みかけの国をなんとかする気があるのかないのか一般の無職の感覚からすると増税連打は本気で理解できない。
民主主義の意義を疑う選挙を巡る政治と宗教トラブル。有名な話(陰謀論だったもの)もここまでくれば、流石に投票制度について考え直す舞台にあげてほしいものだけれど、マスメディアはだんまり。こういう、国をどうにかしようというやる気がみえてこない国内事情のほうが戦争よりも重いものだとぼくは考えてるっぽいけど。政治は一人でやれるものではないから、腐敗した政治は自壊するまで待つしかないのかね。
「投票先がないなら立候補すればいいじゃない」って言える人が頑張ってくれますように。
「戦争なんてものはない方がいい」なんてのはタテマエってのが現実なんだろうな。人口が減れば溢れた移民はきっと居場所をそこに見つけるだろうし、軍需は儲かるだろうし。半導体不足も、値上げの理由になってそう。
日本にいると、前提として個人に与えられた権利がそれなりのものだから感覚が麻痺しているのかもしれないけど。そもそも人間の命は平等ではないし、人間の悪意や復讐心みたいなもののほうが、善意よりも強い。善意は無から生まれるけれど、悪意も胎を同じくして、さらに悪意からも生まれる分、質が悪い。
戦争の終わりについてはメンツと悪意をどう処理するかが本質なんじゃないか。
ロシアはメンツのために戦争を終われなさそうなイメージがあるし、イスラエルとパレスチナが報復合戦を始めたら三教の外にいる無信仰者(三教の神以外を信仰する人)はどっちの教義が正しいかについての答え合わせを待つことしかできないんじゃないか? 一周回って、極端に排外的な気持ちで現代の戦争をみているのかもしれない。いや、よそ様のことやし……みたいな。
日本にも外国人が増えているっぽいけれど、クルド人のやらかし、ベトナム人のやらかしについて、一般市民はどう考えるべきなのか。自分のことを人種差別主義者や、カラーリズム支持者だと思ったことは一度もないけれど、ぼくは反宗教主義者(≠無神論者)だから、一神教信仰者と無法者についてはずうずうしいので自国でやってくれ、帰ってくれと思う。神的な存在はいくらいてもいいけど、21世紀になってもまだ争いの種になる神なんて人類記念博物館にしまいこんでおいてほしい。信仰の有用性についても否定しないけど、よそ様にそれを押し付けはじめたら有害なものである可能性の方が高いからね。神は不滅らしいから何度でも滅してくれ。
日本という国は戦後、ずっとアメリカの🐶路線に憧れているようだけれど、戦後政治やアメリカの現代政治の本を軽く読んだだけでも失敗だらけの親米路線は無理があるでしょ……かといって、中国も中国であの政府とはマブダチにはなれないでしょ……という気持ちがある。
近隣諸国が赤い国かムスリム国家だらけで、仲良くしたいロシアはあんな感じになってしまったし、やっぱり韓国、韓国しかいないのか……?(と思ったら、やっぱり外交で手のひらクルーされてたのをみた)
特定一神教を国教にしてる国、国民とは、個人づきあいでも友好の限界ラインがあるよな……そもそも世界全部と異なる理念を持ちつつ仲良くしようなんてのが無理じゃね? 人間関係の本質はウチとヨソ。ヨソではええとこだけみせて、ウチではもっとええようにがんばろ。くらいのノリでやれてたらええねん。そもそも三教がベースある国が始めたグローバリズムは軛でしかないですよ。でも、みんな一つに纏まれる御旗がほしくて仕方ないんよね。
なんか、ここまでどうでもいい話を書いてて思ったけど。現代の虚無人間ってこういうどうにもならないものについて考えること自体が好きな半端ものが大多数なんですよ。何かを知ったところで特に意味はないよってぼくのことを笑ってくれ。
暇つぶしにしてはちょうどいい感じに時間を活用できてよかった。政治にも戦争にも関心がないのに、逆に何に関心があるんですかアナタは?って訊かれたら「何もないです」としか言えんのよ。
今年は法学と自然科学と国内政治史の年と自分で選書テーマに沿った読書をしてるんだけど、ここだけの話自然科学でも環境学とか生態学の本はクソ面白いし、SDGs的なものの必要性を再認できてよかったんだけれど、化学分野や宇宙論(量子力学的な仮説論たち)の分野は自分の生きてる世界の虚しさを再認してしまって、大局からすれば全て瑣事という虚無主義棒に自分の愛すべき地球が叩き壊されている。
大は小を兼ねません! 小も大足り得ません! ということで、人生が意図せぬタイミングでいい感じに終わりますようにと、存在したらうれしい神的な存在にお祈りをしつつ、今日の晩御飯の支度をします。
世界がはやく平和にほろびますように💫
(こんなことばっかり考えてるからおかしくなるんですよ、ぼくの人生)