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ハートで踊るアルゼンチンタンゴの話

私、台湾でアルゼンチンタンゴを習っています。
アルゼンチンタンゴって、相手の人となりが言葉で交流するとき以上に伝わってくることが多いです。
でも、それはその人が心の扉を開かないことにはやっぱり伝わってこない。
扉開いてないってこともストレートに分かっちゃうので、それはそれで分かりやすいですが。

言葉という媒介はまどろっこしい

小さい時から、言葉というのは中々自分の本心が正確に伝わりづらいと思っていました。
反面、物心ついたときから習っていたピアノは、ありのままの自分をのせて弾くことができるので、「音楽」という言語は私にとって日本語や中国語以上に自己表現をしやすい媒介でした。

同じ曲でも弾く人によって全然違う印象が生まれるのは、人によって解釈の仕方が違うからで、違いが生まれるのは個性による部分が大きいんじゃないかと思うんです。
逆に、教科書通りに「この時期はこういう曲の構成が主で、この作曲家はこのように弾くのがよい」という指示に従って弾いてる場合は、とても正確に美しく弾いているんだけど、どこか「機械的」という印象を私は持つことが多いです。

プロだけど演奏が印象に残らない、つまらないと思うことがある反面、技術的にはまだまだだけど、「音楽に対する情熱」が伝わってきて、涙ぐむほどに感動することもあります。

アルゼンチンタンゴも似ているなと、個人的には思っています。

ハートの交流ができるタンゴ

お互い心を開いて踊っている時は、どんなステップを踏んだかは覚えていないけど、ハートで交流し合えた喜びはずっと後まで残ります。
これまで踊ってきた中ではとくに、あるていど年齢を重ねた人ほど、心で交流するタンゴを重視する人の割合が多かったです。

「相手の心を感じる」ことって一種の感覚なので、「気のせい」とか「勘違い」かもと最初の頃は思っていました。
それが確信に変わったのは、ミロンガに行くようになって、海外から来たダンサーとも踊る機会が増えてから。
とくに目視50代から60代くらいの海外から来たダンサーは、「私の気のせいかな」という疑いを一曲目踊り終わった時点で払拭してしまうくらい、心が通いあった喜びを言葉と身体の両方で伝えてくれました。

「君は真心で踊っている。ハートが感じられる。また踊りたい」

違う時期に異なる国から来たダンサーにそんな風に言ってもらえて、私が今まで信じてきた言葉を介さない心の交流は本当にあるんだって、思えるようになりました。
心で踊っている人達は、彼らのダンスや音楽に対する情熱を私の心の芯までダイレクトに伝えてきます。
一回のミロンガで、一度でもそんなタンダがあると、本当に幸せな気持ちになれます。

心の機微を感じて踊るタンゴは面白い

東洋人はなかなかそういう確信の持ちづらいことを言葉にはしないようなのですが、たぶん私と同じように感じて人は他にもたくさんいると思います。
「この人はどんな人なんだろう?」と好奇心を持ちながら、心同士の交流に期待して今日も踊りたいと思います。

#アルゼンチンタンゴ #心 #ハート

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