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分かり合えないことの安心|2022.9.18

ここ4、5年で分かり合えないことにフォーカスすることが多くなったと思
う。たとえばドミニクチェンさんは分かり合えなさについて「それらは埋めるべき隙間ではなく、新しい意味が生じる余白でもある。」と言っているし、今読んでる永井玲衣さんの『水中の哲学者たち』は「 私たちはあなたの苦しみを理解しない。あなたの悲しみを永遠に理解しない。だから、共に考えることができる。」と書いている。思えば分かり合えないことばかりで分かり合えないからこそ安心したし、不安になっていた感じがする。

大学生のとき、ボランティアで子供たちと2泊3日するイベントを主催していたことがある。正直、教師の助けもあまりなければ、親もついてこないので運営側は荷が重い。(準備が大変である)

開催されるのは大体8月下旬なので準備期間はあるもののお盆休みには実家に帰る学生も多かった。ぼくは山梨に実家があるので、帰省したもののずっと頭の片隅にイベントの準備がちらつく。(確か2016年だったと思う)

実家では毎年恒例の家族のBBQ、両親とおばあちゃんと、確か姉もいた気がする。(三人兄弟だがみんな散らばっているので集まるのがレアなのである)

たまたまおばあちゃんと2人きりになる。
おばあちゃんはすでにボケていて、ぼくの名前もあやふやだったが、話すこともないし、いま取り組んでる活動について話してみることにした。はじまる説明。うなずくおば。何が大変なのかを説明。うなずくおば。おそらく理解はしてないだろうなと思いつつも、なぜだろう、自分から発する言葉は止まらない。すると自分でも理解できないが涙が落ちてくる。不安がとめどなく溢れてくる。矢継ぎ早の言葉はどこに着地するわけでもなく、段々と支離滅裂になる。そうか、2人の間に「理解」はいらないのである。

人間という言葉がある、人には間が必要条件だ。間があるから社会的な回路が働く。そこのは合理性やわかりやすさは必要ないのかもしれない。心理的に負荷がかかったとき、どこかに吐き出すよりも誰かに吐き出すことを求める。心の中の豪雨は冠水という形で自身を覆っていく。この街に受け皿はおそらくないだろう。僕たちはやはり「誰かを」求めてしまうのである。


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