学園東町三丁目(あとがき)
一度観てしまったものの、二度と観る気にならない、いや、もはや正視することすらできないトラウマ映画というのがあります。野坂昭如先生原作の『火垂るの墓』やビョークが主演した『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、人によってはソフィア・ローレンの『ひまわり』などを挙げるもいます。映画ではないのですが、私にとってお正月恒例の『箱根駅伝』は正視に堪えないトラウマ番組です。ちら見しかしたことがありません。
人々はお屠蘇気分で、やれ「区間新」だ、「山の神」だとワイのワイの騒いでいますが、選手にとってあれほど重圧に満ちた過酷な世界はありません。往路5区、復路5区、10人がたすきを繋ぐ駅伝競走。控え選手は6名で総勢16名の総力戦となります。チームに迷惑をかけてはならない、自分の責任を果たさなければならない、という計り知れない重圧。僕が正視できなくなったのは、精神的体力的な限界を迎えた肉体に「ブレーキ」がかかり、足が止まりながらも精神力でふらふらになりながら、幽霊のようにゴールに倒れこんだ学生を見てからでした。痛々しくて身につまされてとても全国中継で映してはならないあまりにも残酷な光景。あの選手はその後どのような人生を歩んでいるのでしょう…幸せに笑って奥さんやお子さんと暮らしているのでしょうか…元気に毎日働いているのでしょうか…
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旧三商大柔道巴戦(三商大戦)や旧七帝柔道大会(七帝戦)といった15名の「抜き戦」はその精神構造が箱根駅伝にとてもよく似ています。一年に一回のその試合のために学生はすべてを捧げて勝つことに集中します。「抜き役」や「分け役」といった自分の役目を果たさなければならないという異常なまでの「責任感」。自分が迷惑を掛けることはできない、しっかりと「役目」を果たさなければならないという「責任の連鎖」が集団として異様なまでの熱気を産みます。そして、その責任はその場にいる者のみならず、100年以上も前から続く歴史上の過去の選手たち(OBともいう)に対する責任でもあり、一人畳の上に立つ選手は並大抵の精神状態で試合に臨むことは不可能な巨大な重圧に苛まれることとなります。負けた選手は翌日「監視」という名のもとに、気の置けない仲のよい同期や先輩が一日中同行し、おかしな行動に出ないように見張られながら無理やり神戸の異人館や大阪食い倒れ横丁を巡ることも毎年見られる光景です。
最近、社会人柔道部を通じてお目にかかる七帝OBにも、私の主観ですが、明るいように見えて若干病んでいる方がおりました。その方に、その旨を指摘すると、ふとした瞬間に「ダークサイドに入る傾向があるので気を付けている」と仰っていました。明らかな「15人抜き戦」のトラウマ症状と思われます。
けれども、「自分の責任を果たす」ということの重みを三商大戦で知ったからこそ、社会人として仕事で成し遂げることができた仕事がいくつもあります。どんな重圧であっても三商大に勝るものはないからです。参ったなしです。
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今回の小説の執筆にあたっては様々な方のご協力を得ることができました。
登山の師匠であるF橋先輩から3週間前に打ち合わせのお誘いがなければ新小平に辿り着くことはなく、今回の小説の着想が得られることはありませんでした。昨年来のご支援を含めて切に御礼申し上げます。
同僚のI原健至さんには酒税法の観点からエタノールとメタノールの違い、そしてカストリ焼酎の何たるかの完璧なご説明を賜ることができました。民間企業の研究者には恐ろしく優秀な方が潜んでいるという認識を新たにしました。格闘技マニアのI原さん、本当にありがとうございました。
七帝大戦や三商大戦はこれまで高専柔道や日本武徳会との関係において語られることが多かったのですが、今回、旧制高校や専門学校、大学予科といった学校制度の観点から光を照らすことができたのは斬新な試みだったのではないかと思います。旧制の学校制度の中で、高校や予科といったナンバースクールが大学の附設機関であり、その大学と附設の合同軍が高専柔道のチームを形成していた、という観点や、柴山先生が小平にさっそうと登場された当時の学生が旧制から新制への移行期間にいたために、卒業時のステータスとしては様々な方がおられたという点関しては、如水会のI淵N村由美先輩から多くの知見を賜ることができました。切に御礼申し上げます。
同僚で、同年入社の宮澤守さん、言わずと知れた七帝柔道記の登場人物の一人です。七帝柔道と三商柔道の比較論においておおいに示唆に富むご指摘を頂きましたことを御礼申し上げます。
柔道部の先輩方には一部実名でご登場いただきました。事前に了解もとっておりませんが、おそらく何もおっしゃられないので黙認ということで御了承を頂いているものと思います。特に、白帯で入部したときの4年生で主将だった津田先輩には社会人になってからも丸の内柔道倶楽部にお誘いいただくなど昔から物心両面で多大なるお世話になっております。ここに深く御礼申し上げます。
ヤロサイは、3年ほど前に、勤務先の病院が買収されて経営主体が変わり、医療従事者が次々に離職してしまったときに無理なローテーションに健康を害してしまい、一時期入院を余儀なくされたのだそうです。その際にお見舞いに来てくれた15歳も若い弘前出身の色白の美人看護師とめでたく結婚し、今は幸せな女の子のパパになりました。一昨年、別の同期の結婚式で再開した際には「健康を害して初めて家族を持ちたいと思った」という、またしてもヤロサイらしい白々しい名言を吐いています。いまだに、競馬にパチンコ、さらにはバイクや釣りまで趣味とするようになりました。ヤロサイは4年間、いや放校されるまでの6年間、一度も三商大戦の畳の上に立つことはありませんでしたし、3年生の三商大戦に遅刻して着た「ツワモノ」ですが、私はひそかに「実はヤロサイ最強説」を唱えています。今回この小説?を書くにあたり本人にいろいろ取材させてもらいました。ありがとうございました。
ヤロサイ含む10名の同期の皆には感謝しきれないほど感謝しています。僕が今こうして生きているのは彼らのおかげといったも過言ではありません。今回も、ダレイワ君、ホイヤー君、タラちゃんの3名と一つ下のバレー君(バレー君は在学中に学内合コンした際に、「私料理が得意なの」「ほんまか、料理ゆうてもククレカレーちゃうんかい」というやり取りで、在学中から一つ下の漫画家倉田まゆみさんを知っていたという稀有な体験の持ち主です)とリモートのみをすることができ、当時の状況について記憶を喚起することができました。ありがとうござました。
2つ下の後輩の一緒に卒業した6名とはどうしても気まずい関係にあり、まだ一緒に飲んだことすらありません。僕が悪いのですが、彼らとは一度腹を割ってとことん話を聞きたいと思っています。そして改めて当時のことを詫びたいと思います。
在学中はバルセロナオリンピックの女子柔道チーム監督の傍ら、柔道部に幾度もお越し頂き、様々なご指導を仰がせて頂きました野瀬清喜先生に改めて御礼の言葉を申し上げて、本稿を締めさせていただきたく存じます。野瀬先生本当にありがとうございました。これからもどうぞお元気で、今後とも何卒よろしく柔道部をご指導のほどお願い申し上げます。ありがとうございました。
(終わり)