戦争の傷跡はどう扱われていたのか(#41 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)
分析編・戦後処理(戦争の傷跡はどう扱われていたのか)
以前にも述べたように、政策ニュース映画は、大空襲の被害が多かった地域で多く作られています。そもそも製造業などが多い工業都市が、主に空襲を受けていたという背景もあり、それらの映像では、まず都市部の復興が主要なテーマになって行きます。
川崎市政ニュース映画でも、戦後処理がいくつか取り上げられています。まだ戦争中の記憶が生々しかった時代に、人々がどう戦争の痕跡を捉えていたのか、それらの映像の端々から捉えることができます。
昭和2,30年代には、空襲によって破壊された施設や建物などの復興がテーマになっています。上の写真は、迷彩を施した川崎市役所とその付近の焼け跡の様子です(川崎市平和館)。
川崎市政ニュース映画には、川崎大師と川崎市消防署が取り上げられています。
神奈川ニュース全体では、横浜を中心に空襲の影響からの復興を捉えたものがいくつか含まれていますが、ニュース映画の製作が始まった昭和20年代後半には、大きな公的設備などはほぼ再建がなされた後のようです。
川崎大師は、昭和27年11月20日「復興する川崎大師」で、本堂の再建に着手するための復興祭が取り上げられます。
空襲を受けた状態の川崎大師が映るので、貴重な映像だとは思いますが、逆光のせいか、映像自体が余りはっきり映っていません。
ただ本堂の壁面に明らかに機銃掃射の跡と見られるものも映っています。
その2年後、昭和29年11月17日「川崎大師の上棟式」では、本堂の鉄骨の完成にあわせた棟上げ式の模様が取り上げられます。仏式の上棟式の模様が興味深いですが、空襲の痕跡などは全く映りません。
ナレーションは、戦災という言葉を使って以下のように述べています。
「戦災を受けたままで、参拝の善男善女を嘆かせていましたが」
「戦災で一万余坪の名園も、壮麗な殿堂も焼失してしまったのですが」
天災に置き換えても違和感のない表現ですが、市民の感覚を端的に表しているようにも思えます。
直接被災した建物に言及するのはもう一つあり、そちらは公的設備です。
昭和31年3月21日「望楼にニュー・スタイル」では、川崎市消防署の望楼、火の見櫓が取り上げられます。場所的に、臨港消防署だと思われます。
「京浜国道に戦災のままの醜い姿をさらしていた川崎市消防署の望楼は、国道拡張によって、いよいよ取り壊されることになり、かわって白亜のスマートな望楼がお目見えしました。高さ22メートル余、灯台型の変わった形は、県下で初めてのものです。電磁式風光風速計はご自慢のもの。中段には、登攀人命救助の訓練もできる設備があります。すでに、2月から活躍していますが、やがて、工都川崎の新しい名物の一つとなることでしょう。」ナレーション
「戦災のままの醜い姿」という表現が印象的です。まだ記憶に新しいですが、東日本大震災の時の様々な震災の痕跡を、保存するか撤去するかで、いくつかの地域で議論になったことがニュースを賑わせたことを思い出します。
戦争は天災ではないので、一般市民にとっては一刻も早く忘れてしまいたい記憶だったのかもしれません。
川崎は、昭和20年4月15日から翌未明にかけて、大空襲を受けます。文献によると、約200機にもおよぶ米軍の長距離爆撃機B29が飛来し、9000発もの焼夷弾と1340発の爆弾を投下したとされています。
「神奈川県の戦争遺跡」(神奈川県歴史教育者協議会,1996/6)
この川崎大空襲により、現在のJR川崎駅から東側の一帯は、市役所と水道部庁舎を残して、臨海工業地域に至るまで一面の焼け野原になってしまったとの記述があります。
その中に建っている迷彩柄を施した川崎市旧庁舎の写真(上)は有名ですが、この消防署の望楼に関しては記述がありません。
映像を見る限り、川崎大師ほどの戦争被害を受けているようにも見えませんが、映像では余り映りません。
その向かい側に新たに作られた新たな庁舎の望楼が主に映ります。
この新しい望楼は、「白亜のスマートな」と表現され、「工都川崎の新しい名物の一つとなる」とまで言われています。
映像で見る限り、周囲を見渡せる建物だったようです。
望楼と思われる建物の50年後の様子が、下に示す写真です。既に塗装は剥げ、また周囲に高い建物が建てられており、望楼としての役割は終わっているようです。
この望楼も、平成23年に新庁舎に建て替えられた際に姿を消しました。この場所は、現在では、面影すらありません。
戦争関係は、その他に昭和29年に戦没者慰霊祭の模様が1度だけ取り上げられます。
昭和29年1月15日 第三回戦没者合同慰霊祭
式典の記録として、内容は淡々としたものです。
「花輪でうずまった市内5000柱の英霊」というナレーションが入ります。
英霊という言葉は、国に殉じた人々や護国神社に祀られている戦没将兵と言った意味で使われていると思いますが、この当時、空襲被害にあった一般市民に対してもそのように総称していたようです。
この後、戦争に関する話題は、記憶の継承や教育などに移って行きます。以下に、映像のリンクを貼っておきます。
川崎市平和館オープン(平成4年5月15日)
平和を考える子どもたち(平成7年12月15日)
平和を考える市民のつどい(平成12年9月15日)
学童疎開体験ツアー(平成14年9月15日)
これも重要な戦後処理と言えるでしょう。
昭和2,30年代で言えば、総体的に、戦争に対する距離の取り方が、なぜか醒めている気がするのは、逆に記憶が生々しかった時代のせいではないかと思われます。
躍進や発展に関してここまで饒舌なニュース映画が、戦災に関しては寡黙になるのは、そのまま当時の戦争に対する傷や思いの深さを表しているように思えます。
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