一次産業とその衰退(#37 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)
社会経済の変化・一次産業とその衰退
高度成長期の特徴として、産業構造の転換があります。
都市部に集中して来た人々を労働力と消費者とした、新たな産業が生まれていき、元々日本の主要な産業であった、農業、漁業を中心とした一次産業が、大きく衰退して行きました。
昭和30(1955)年には、就業者数の41%を占めていた第1次産業従事者は、昭和35(1960)年には第3次産業にその座を明け渡し、更に昭和40(1965)年には第2次産業の就業者数をも下回るに至ります。
凄まじいほどの大転換ですが、元々そこには、戦後の宅地不足が引き起こした、土地の開発と産業の転換による、農地の宅地化という政策上の流れがありました。
昭和30年代から、都市部通勤者のために、ベッドタウンとして、郊外に新たに住宅団地、ニュータウンが次々と開発されていきます。
川崎の場合、宅地の開発は北部に伸びて行きますが、そこはもともと豊かな自然環境を利用した一次産業が存在していました。
このように、宅地の開発が郊外に向かっていったこと、さらに都市部で農地がどんどん宅地化されていったことなどから、農産物の主要な消費地である都市部との関係において、3つの農業区分が生まれることになります。
都市から離れた地方で元々行われ、輸送機関を使って出荷される「輸送園芸」「遠郊農業」、都市部に新鮮な農畜産物を供給することを目的として、都市に近接した地域で行われる「(都市)近郊農業」、そして都市の急速な拡大に伴い、都市部に点在することとなった農業である「都市農業」の3つです。
都市農業とは、農林水産省の資料によれば、「市街化区域内農地とその周辺で営まれる農業」を指すとされています。
近年、都市部、市街地に存在する農地の価値が、特に震災などを契機にして見直されるようになり、市街化区域における農地が、宅地への転換ではなく、農地としての維持を主眼としたものへと、政策が転換してきています。
その契機となったものは、平成27年成立の「都市農業振興基本法」と、平成28年の閣議決定による「都市農業振興基本計画」の成立で、それはごく最近のことです。
戦後の宅地不足が引き起こした、土地の開発と産業の転換による、農地の宅地化という流れは、実に戦後70年以上も継続していたということです。
川崎の政策ニュース映画にも、一次産業の痕跡が記録されています。
それは、主に北部地域を中心とした近郊農業の範疇のものですが、昭和20年代の高度成長期以前のものは、完全に農村の姿であって、近郊農業、都市農業が生まれていく以前の姿から記録されています。
川崎市政ニュースに残る一次産業の記録としては、梨、桃、酪農と、南部の海辺で獲れていた海苔がその内容です。
しかし本数的にはそれほど多くなく、余り積極的に取り上げられているとは言えません。海苔はその消滅がテーマですし、梨、桃も、トーンとして、工業地域の中での特殊な例といったニュアンスです。
現在の眼から見ると、既にその頃から斜陽産業として扱われていたということがはっきりわかります。
川崎の一次産業の記録は、昭和28年1月22日「大師海苔」から始まります。
「近代工業都市川崎に、工業とはおよそ縁遠い食用海苔が採れます」
というナレーションから、既に地域の産業として特殊なものとして扱われていることが伺えます。
動画には、大師海岸の海苔漁の様子が記録されています。
小舟を使って海苔ひびを回る漁師の姿は、大変貴重です。そこに映る粗朶を使ったひびはいかにも古典的です。大師海苔は、浅草海苔のOEMとして品質が評価されていたそうで、海苔漉きの模様もわかります。
「多摩川桃」は昭和28年7月16日、「多摩川梨」は昭和32年9月18日のニュースですが、梨はこの後も何回か取り上げられます。特に後者は梨狩りの模様などが取り上げられており、人々の佇まいには戦争の影響は全く感じられません。
さらに、昭和28年2月19日「牛の健康診断」では、酪農の模様が続きます。酪農は、この1本しか記録されていません。
藁ぶき屋根の農家の庭で、牛に予防注射をする様子は、川崎とは思えないと言えばそれまでですが、旧来の日本の典型的な農家の佇まいで、近代工業都市という政策にはそぐわなかったのかもしれません。
最後は、昭和31年12月19日の大師海苔の消滅を記録した「消える大師海苔」です。
この映像は以前も触れましたが、おそらくこの一連の川崎市政ニュース動画の中で、時代の移り変わりを示した典型とも言えるような映像と言えるかもしれません。
大師海岸の埋立工事のために、昭和32年には姿を消す海苔漁の最後の姿の記録がその内容です。産業の終焉が記録されているにも関わらず、なぜかBGMが楽しげなのに大きな違和感があります。
豊作祈願の海苔供養という儀式から始まります。海苔は植物なのですが、海苔漁師と呼びますし、豊作祈願を供養と呼ぶのも興味深いところです。
「しかしこの冬は水温が高くて祈りの甲斐も無く、去年より一段と不作の模様で…」
と続きますが、この水温の上昇は、明らかに工業廃水の影響でしょう。海に浮いた油などの影響を指摘する意見もあります。
この動画では、このあと海苔漁師が転業して牛乳販売を行うようになる模様が続きます。
100年近くも代々受け継がれてきた大師海苔。やがて消えていく船の溜まり場にたたずむ年老いた漁師の胸中には何が去来していることでしょう。
と最後のナレーションが続き、貧しげな海苔漁師の親子が大写しになります。この辺りは、若干の演出を感じますが、ストレートな表現に、一次産業に対する当時の扱いが伺われます。
川崎は、やはり都市部なので、生態系に依存する一次産業が大きな産業とは成りえず、斜陽化していくのは明らかなのですが、この一連の一次産業の扱いを見る限り、当時の趨勢として、工業化、近代化が高い優先度を持っていたというのは否定できません。
ただし、一次産業がきちんと存在していたという事実は継承すべきでしょうし、それに付随した人々の暮らしや文化が記録されているということは大変貴重です。
他の地域の政策ニュースと比較すると、戦後の都市化のプロセスがより明確に浮かび上がって行きます。
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