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川崎市政ニュース映画の概説(#9 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)

川崎市政ニュース映画

平成19(2007)年の神奈川ニュース映画協会の解散にともない、多くのニュース映画が、横浜市、川崎市に移管されました。川崎市の委託による分は、デジタル化を行い、権利処理等も終えて、「川崎市映像アーカイブ」としてYouTube等で公開されています。
川崎市政ニュース映画とは、神奈川ニュース映画協会が作成した、この川崎市委託分の総称です。神奈川ニュースの中でも、この川崎市分は、港湾の整備とともに、産業集積が進み、日本の工業技術を支えた京浜工業地帯が成立していくプロセスが記録されているという意味で、恐らく政策ニュース映画の中でも、一級品の史料です。

川崎市政ニュース映画は、昭和27(1952)年度分から平成19(2007)年分まで計719本あり、合計再生時間は、19時間30分34秒という膨大な蓄積となっています。長期に渡ってコンスタントに作成されており、平均すると年間10数本が公開されました。市政ニュースという性格から、川崎大空襲によって荒廃したインフラの整備が本格化した、昭和28、9年頃と、東京オリンピック前後の昭和39、40年頃が最も多く、どちらも20本弱ほどが公開されています。

川崎市政ニュース映画は、昭和27年から55年間に渡って作成されましたが、その間映画媒体としては大きく3つの変化がありました。

まず、昭和36(1961)年1月24日「伸びゆく川崎」から、画面のサイズが、当時の映画の標準サイズだった、スタンダードサイズ(縦1:横1.33)から、通称シネスコと呼ばれる、横長のスコープサイズ画面に変わります。昭和30年代前半から、日本の映画会社が次々とシネスコ映画に変えていったため、それにあわせたものと思われます。

映像に見るように、かなりの横長サイズだったため、それまで縦書きだった映画のタイトルが横書きに変わります。またそれに合わせて、タイトル自体が長いものになって行く傾向もあります。

タイトルバックに関しては、当初映像の上にテロップを載せたものでしたが、昭和30(1955)年9月28日「年寄りの日」から、無地のタイトル画面が付くようになります。

画面サイズは、さらに時代が下り、昭和57(1982)年4月15日「ニューフェイスニ題」から再び、スタンダードサイズに戻ります。おそらくこの時点では、テレビが人々には浸透していたため、そちらに戻したのではないかと思われます。

また、映像は長らくモノクロでしたが、昭和54(1979)年4月15日「リエカ・フェア開かれる」からカラーが採用されます。日本の映画では、昭和40年代後半(1970年代)にはカラー映画が主体となっていますので、やはりそれに合わせたものでしょう。

昭和39年の東京オリンピック以降、復興や成長などという行政課題が失われて行き、映像がカラー化され、鮮明なものになっていくと、いろいろな意味で行政の広報としての色彩が強くなっていきます。端的に言えば、急速に面白くなくなっていくわけです。
同じ製作者による同じ地域の映像だからこそ、戦後昭和2,30年代から高度成長までに起こった社会変化が、如何に特別なものだったのか、その後の時代に大きな意味をもたらすのかが、はっきりわかります。
ここからは、特に昭和30年代の高度成長期にフォーカスを当てて、ニュース映画を見て行きましょう。

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