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市民アーカイブズ構想(人々の小さな物語を町の大きなアーカイブズに)

この世界は誰が作ったの?(戦後編)

ある缶コーヒーのCMが、ずっと頭に残っています。

「ねぇ、パパ、この世界は誰が作っているの?」


缶コーヒーは、マーケティングの題材として、誰でもが知っている商品で、M1層(20歳~35歳)が主要商品であり、実際女子大の中の自販機には殆どありません。だから、その層に向けたCMではあるのですが、この無邪気なようで実に深い子供の質問に対して、どう答えますか?

CMでは、いかにも缶コーヒーのヘビーユーザであろう人々が出てきて、次々に「俺だ」と言います。ユーモラスな内容ですが、実は、戦後社会を簡潔に示した、非常に深い内容と読み解くこともできます。
 例えば、戦前、戦中だったら、この問いかけには何と答えたでしょうか。一つだけ確かなのは、「俺だ」とは誰も言わなかったでしょう。
戦後、平和憲法の発効とともに、社会の様々な民主化が行われてきました。それは、一般市民が社会の主役となるということを意味しています。経済面では、自由意志によって購買や生産などの経済活動を行い、政治面では、主権を持って民主主義社会を支える、市井の人々、消費者、生活者、市民、大衆、庶民等々、文脈により様々な呼ばれ方をされますが、社会を動かしていったのは、独裁者でも君主でもなく、こうした一般の人々だったのが、戦後社会の最大の特徴です。

 次から次と、働いている人々が「俺だ!」と宣言していくこのCMは、こうした戦後社会を端的に示したものに見えるのです。
実は今の大学生は(過去の大学生もほぼ同じでしょうが…)、驚くほど戦後社会の知識を持っていません。自分自身も記憶がありますが、日本史にせよ世界史にせよ、過去から時系列に辿っていく構成の授業で、大体戦前、戦中あたりで授業は時間切れになってしまいます。大学の受験には、まず戦後にまつわるものは出題されないし、そもそも戦後史は生々しすぎて、教えにくいということもあるのでしょう。右だの左だの、自虐だの修正だの、確かにメンドクサイかもしれません。
ですので、今の社会がどう生まれてきたのかを、端的にこたえられる学生は少ないのです。縄文人だのネアンデルタール人だのは、最初に習うので、そこだけは詳しいという人も多いでしょう。でも、原始人どころか、平安、江戸の時代にいくら詳しくなったとしても、語弊のあるいい方かもしれませんが、今の社会には繋がりません。そもそも、その時代を生きた人は、今は一人もいないわけですから。

 折に触れ強調していますが、今、我々が生きているこの国のこの社会にとって、最も重要なのは、「高度成長期」、あるいは「高度経済成長期」と呼ばれる、戦後のごく短い時間です。その時代が、今の社会を作りました。

吉川洋という経済学者の著書に、「高度成長」という本があります。

その中では、その時代のことをこう説明しています。

高度成長は、まさにこうした時代区分(平安、鎌倉、江戸など)に匹敵するほどの大きな変化を、日本の経済・社会にもたらした。
高度成長がもたらした変化に比べると、70年代以降の変化ははるかに小さい。今日我々が、日本の経済・社会として了解するもの、現代日本人をとりまく基本的な生活パターンは、いずれも高度成長期に形作られた。
高度成長は、日本という国を根本から変えた。

つまり、ここから今の私らが生きている、そしてこの先も継続するであろう社会の基本的な姿が作られたということなのです。にも拘わらず、学生さんたちはそのことを知らずに生きている…。

 学問は、どの領域であれ、すべからく未来に向けた行為であると思っています。未来が、今の延長線上にあるとするならば、その現在を作り上げた過去のある時点を理解して、方向性を俯瞰することは、何より大事なことだと思っています。「高度成長」ではこう続きます。

これほど大きな変化が、「昭和」という一つの元号の3分の1にも満たない短い期間、わずか6000日の間に生じたことは、考えてみれば驚くべきことである。1950年代初頭の日本は、今から見れば、何ともつましく、古色蒼然とした社会だった。 高度成長,吉川洋,中公文庫

 今年が2021年ですから、高々70年前に今の社会が生まれたわけであり、それを理解するのは決して難しいことではないと思っています。まだその時代を体験した目撃者たちが健在なわけで、彼らの記憶や残した記憶から学べることはたくさんあります。何より、その一般市民が作った時代が、今なのですから。
「何ともつましく、古色蒼然とした社会」がどういうものだったの、そしてそれがどういうタイミングでどうリニューアルされて行ったのか。学ぶべきこと、そして記録に残すべきことはそれだと思います。

 我々の研究室が主催する「二十世紀市民アーカイブズ研究会」では、戦後社会の成立を目撃してきたシニアの記憶を、抽出、記録する活動を行っています。映像記録としても高品質のものを残すために、連続インタビュー企画「戦後社会・45分の思い出」を実施しています。

 60代後半以上(前期高齢者以上)の、高度成長期を経験、記憶しているシニア世代の方に対して、1テーマ、約45分で、大学生を含め数人で対話を行いながら、記憶を記録していく試みです。長時間の対話は、体力的にもなかなか難しいものがありますが、あの頃のできごととご自分の記憶を、3,40分話していただくのは、無理なく誰でもできます。エビデンスとして、1,2枚の写真やその他の史料を持参していただき、ご自分の記憶を語ってもらっています。

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この国の1700か所以上もの素敵な場所

 戦後社会の重要な特徴に、地方自治があります。戦後、多くの自治体が、様々な努力で、地域を快適な場所にすべく施策を行って来ました。しかし、力及ばず、併合になったりあるいは廃村になった地域も多くあります。

 第二次安倍政権の目玉政策だった、「地方創生」政策は、戦後社会を支えてきた地方自治にフォーカスを当てるものでした。前述の高度成長の始まりと共に、空襲で破壊されつくした都市部が復興し、産業の成長と共に、多くの労働力を必要とするために、地方から若い労働者達をたくさん集めました。現総理大臣も、地方から「集団就職」で都市部に来た過去を持つということはよく知られています。元々、地方の中心的な産業だった、1次産業の生産性の低さもあり、おりしも戦後のベビーブームで、地方で余剰してしまった若い労働力を、政策として都市部に集めたわけです。その安価な労働力が、経済成長を下支えをしました。それが「人口ボーナス」と呼ばれる現象ですが、それは都市部の新たな産業である、2次産業、3次産業が吸収して行ったわけです。

人口ボーナス(英語: demographic dividend)とは、総人口に占める働く人の割合が上昇し、経済成長が促進されることを指す。 Wikipedia

 都市部への人口の集中と地方の過疎は、この時代の政策が、元々の起因となっているわけです。長らく地方は、中央から「搾取」されて来たと見る人も少なからずいます。戦後社会の基本システムである、産業資本主義は、そういうエンジンとして機能してきたということでしょう。

地方は公的セクターからも、民間の大企業からも切り捨てられて、ピジネス効率の良い大都市圏だけに経営資源が集中されています。

 「地方創生」政策の前には、昭和63(1988)年から平成元(1989)年まで、竹下政権の下で、「ふるさと創生事業」という政策が展開されたことがあります。

 その正式名称を、「自ら考え自ら行う地域づくり事業」と言いましたが、通称1億円事業の方が通りがいいでしょう。時はまさにバブル期で、中央政府が各自治体に有り余る金を配ったものでした。Wikipediaを見ると、如何に愚策に金が使われたかがわかります。決して豊かではなかった時代を通して、未来に向けて何に投資するのが一番大事なのか、学ばなかったようです。いろいろ意見もあるでしょうし、詳しい事情もわかりませんが、どう考えても、村営キャバレーは愚策にしか思えません。

 結局この「ふるさと創生」事業は、地方自治への支援や戦後の社会構造の見直しといった本質的な方向の政策ではなかったと評価されています。ですので、「地方創生」政策が、戦後社会においては、中央から初めて地方にフォーカスを当てた政策と言っていいでしょう。

 以降、移住促進や産業誘致、サテライトオフィス、さらに関係人口の確保など、地方創生の名のもとに、多くの施策が、民間、自治体を問わず、盛んに試行錯誤されてきています。現在ではほぼ、プレイヤーとゲーム内容が、出そろった感が無きにしもあらずといった状況と言えるでしょう。

 我々も、現在の研究室で、学生達とその一端に関わらせていただいたことが何回もあります。日本にはいろいろな魅力的な地域があり、どこも素敵な風景と美味しい食べ物と、地域を愛する様々な人々と、興味深い風習や祭りがあって、どこへ行ってもいい学びになりました。要するにこの国は素敵なんだということなのですが、しかしあえてネガティブな言い方をすれば、どこも素敵で、そしてみんな、どこか同じなのです。厳密な意味とは違うのでしょうが、地方は「コモデティ化」していると言っていいかもしれません。
さらに、地方創生のプレイヤーたちがやることも、あえて喧嘩を売るような言い方ですが、「コモデティ化」していると言えないでしょうか。
 考えてみれば、人間がすることですから、ある場所に行く場合、やることは遊びに行くか、仕事に行くか、生活を移すかその程度でしょう。そのための名目が、サテライトであり、関係人口である、そう言っても過言ではない気がしています。

 遊びに行くにせよ、働きに行くにせよ、住まいを移すにせよ、問題は、その地域をどうやって深く理解するのか、その点に尽きると思っています。
総務省統計局のデータによれば、 現在基礎自治体は、1,718市町村(市 792 町743 村183)あります。我々は、その1700以上もの地域を選ぶことができるわけです。
 都市部に暮らしている人間は、日本の人口の大半がそうですが、係累、親族の出身地と、親の勤務地以外には、他の場所に地縁を持たないのが普通です。ですので、ある特定の場所に、遊びに行ったり、生活を移すには、何らかのきっかけが必要です。そしてその殆どが、たまたま何かを見た、たまたまその場所の人と知り合ったといった、偶然でしかないと思っています。どう考えても、1700以上の地域を全て見て、移住先を決めるなんて不可能ですから。

 あえて断言しますが、地方創生ブームの中で、今都市部の人間に最も足りないのは、その地域の日常の姿に関する情報です。祭りや観光スポットなど「ハレ」の情報は、どの地域でもたくさんアピールされています。しかしその地域がどういう場所だったのか、そこで人々はどう暮らしてきたのか、そういった「ケ」の情報こそが、我々都市部の人間が最も知りたいことなのです。

地域の住民アーカイブズを作ります

 余所者として、地域に出入りしていると、時たま「地元民でないのに何がわかる?」といった指摘をされることがあります。別にそれは地方だけの話ではなく、研究室で縁を持ってリサーチした、首都圏の工業都市である某市でも、イベントのアンケートにはっきり書かれていました。市政100年近い、人口150万もの大都市であっても、そういう感覚を持つ住民がいるわけで、決して田舎だけが閉鎖的というわけではないようです。
 ところが、どの地域も、今に繋がる人々の暮らしを記録したものは、殆ど存在していないのが実情です。町誌、市史などは、多くの地域に残されていますが、殆どが昭和4,50年代の編纂で、平成以降のものは余り見ません。さらにそれらの多くは、地域の図書館の地域資料コーナーにひっそりと置かれていて、殆どが貸出禁止になっています。ネットで調べることができないものが殆どです。
 「今の記録すら殆どないのに、この場所のことなどわかるわけないだろ」と思ったりしますし、第一、地元民と称する人間だって、大して地域のことを理解しているわけではないケースが多々あります。東京都民と東京タワーの関係と言えばわかるでしょうか。

 その町は、どうやって成立して来たのか、その町ではどういう人がどう暮らしてきたのか、そうした日常「ケ」のことを知りたい。それも、この国が大きく変わって来た、戦後から高度成長の時代について知りたい。
 ある地域は、過疎指定を受け、高齢化率が高くなり、若い人たちが町から出て行くと言います。その対策を考える前に、例えば若い人が就ける産業を生み出すとか、サテライトオフィスを誘致して活性化を目論むとか言う前に、そもそもなぜそうなったのか、元々はどういう産業があった町で、いつからそうなったのか、そうしたことを理解しておく必要があるのではないかと思っています。

 こうした背景から、私たちは各地域の記録を集めた地域アーカイブズを作っていくことを試みています。地域の記録は、公文書など公的資料として残されて行きますが、こと戦後社会では、前に述べたように、社会の主役である一般市民、住民の記録が無ければ、アーカイブズとして価値はないでしょう。図に示すように、民間の記録と人々の証言を収集して、「地域アーカイブズ」を構築するわけです。

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 戦後社会を作ったのは、一般の人々ですから、戦後のアーカイブズに収集されるべきものは、主に市民、住民の記録が中心になります。市井の人々、しばしば名も無き一般市民などと表現されますが、どの人にも名前があり、人生があります。人々のインタビューを通して、その小さな物語をたくさん集めて行きます。それらが同じ町、同じ時代でシンクロすることで、社会の大きな物語になって行くはずです。

 2018年度に、筆者の本務校における演習科目で、「プロジェクトで学ぶ現代社会」という授業を担当しました。これは教員が、社会連携型PBLを手段として、自分の関心のある現代社会に纏わるテーマを学生と共にリサーチする科目で、2018年度には、首都圏から80キロ圏内の、「近郊都市」と呼ばれる地域を対象にしました。その時の成果報告書をKindle版で公開しています。

その中でも、大学での学びに協力してくださった、茨城県北相馬郡利根町(南茨城エリア)、埼玉県秩父郡横瀬町(埼玉東部エリア)、神奈川県足柄下郡真鶴町(湘南西湘エリア)、そして千葉県市原市(上総エリア)の4地域にお願いをして授業を行いました。どこも都市部の学生には、余り知られていない地域です。

 授業ではその地域を知るために、授業では地域のシニアに対するインタビューの設定を、各地にお願いいたしました。できれば戦前生まれで、その地域のことを体験として知っていらしゃる方を、ご紹介いただきました。実は、各自治体さんがどういう方を選んでくださるかが、その町を表す重要なキーになると考えていました。予想通り、見事なくらいに、その町を象徴するような人選になりました。それらの方々と大学生が対話しつつ、シニアのオーラルヒストリーを通して、その地域の姿を明らかにしたかったわけです。

 横瀬町は、果樹園経営者、元養蚕業から弱電業会社員、利根町は、元大企業会社員、行商人、真鶴町は、家業が漁業で流通業に携わってきた方と農園経営者の方、そして市原市は、家業が農業で教員だった方という、その地域の特徴を見事に示す人々になりました。

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 各自治体さんにご紹介いただいた、最高齢90歳から69歳(当時)まで、延べ7名の「その町のことをよく知っているシニアの方」のライフステージを、上の図に整理してみました。

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 殆どの方が、農業、漁業などの1次産業の家業の家に生まれています。昭和30年代から始まる高度成長期以前は、一次産業従事者が多くを占めていたため、当然ですが、そのまま農業を引き継がれたのは、真鶴町のM茂氏(昭和25年生)だけで、横瀬町のY栄一郎氏(昭和17年生)は、養蚕業から弱電企業の会社員へ、真鶴町のS一美氏(昭和23年生)も、家業の漁師を継がずに、元流通業(スーパー)に就いています。また市原市のM靖彦氏(昭和18年生)は進学のために地域を出てそのまま教員の道を選択しています。
 弱電企業は、高度成長期に広まって行った三種の神器(冷蔵庫、洗濯機、テレビ)を製造していましたし、やはり高度成長期には、流通革命が起こり、豊かな商品が大量に流通するという時代になって行きました。 Y栄一郎氏、 S一美氏の職業の選択は、まさにあの時代の先端的な産業だったということです。また、高度成長期以降は、中等、高等教育への進学率も高まって行ったのは、市原のM靖彦氏が示しています。
 注目されるのは、横瀬町のA時夫氏(昭和13年生)です。家業は農業、林業だったとのことですが、それを引き継がずに一時、ケミカル系企業に勤め、その後、西武秩父線の開業とともに、西武鉄道が開発した観光果樹園を経営しています。この観光果樹園は、1次産業の範疇ではあるのですが、観光業でありサービス業として考えるべきでしょう。
 高度成長期の後期から、経済的に豊かになって行った人々に、レジャーブームが起こります。日帰りで手軽に楽しめる、近郊都市の果樹園は、都市部の人には格好の観光地だったことが伺えます。
 利根町のY茂方氏(昭和12年生)は、まさにその時代を支えた、企業戦士でした。山梨県韮崎市出身とのことで、家業に関しては伺えませんでしたが、大学進学のために東京に出てきて、そのまま都内の企業に就職して勤め上げました。家を買うことが、一生の仕事だった時代に、利根町で開発された「利根ニュータウン」を購入して、都内まで通っていたそうです。昭和2桁生まれのこれらの方々は、ライフステージがそのまま日本の高度成長期と重なっています。

 最高齢の、利根町I氏(昭和4年生)は、高度成長の入り口だった昭和30年代初頭には20代半ばだったため、この中で唯一、戦中から戦後、昭和20年代から30年代のはっきりとした記憶を持っています。やはり農家に生まれたI氏は、昭和25年頃から、嫁入り先の家業を引き継ぎ行商を始めています。当時は米専門だったということですが、その背後には、米穀や主要食糧の生産、流通、消費に対して、政府が介入して管理することを定めた、昭和17年制定の食糧管理法に基づく、食管制度があります。
 生産者である農家は、自家保有以外を公定価格で供出し(供米)、政府が消費者へと配給するもので、食糧営団という特殊法人が米穀の加工、管理を行い、これ以外の流通は一切認められないという制度でした。
 こうした食糧営団以外で流通する米穀を、私的な流通という意味で通称「闇米」と呼んでいます。終戦直後は、食糧供給状況は深刻を極めたため、政府は様々な策を講じます。しかし、戦後も引き続いて行われた食糧管理法に沿った食糧の配給自体が、決して十分なものではなく、そのために闇の流通自体が、都市部の人間には必要とされていました。昭和22年に、闇市の闇米を拒否して配給食糧のみを食べ続け、栄養失調で餓死した裁判官がいました。I氏が東京、銀座に行商に持って行ったのは、まさにその米そのものでした。大げさではなく、こうした行商人たちが、都市部、東京の人々を支えていたと言えるでしょう。

 我々が聞きたかったのは、シニアの自分語りでした。なぜなら、長く生きてきた方の人生は、そのまま地域や時代の歴史にもなって行くからです。最年長90歳の、利根町の行商人の方が語る商売のこと、家のことは、そのまま素晴らしい戦後史になっていました。人々の小さな物語は、集まることで大きな時代と地域の記録、物語になって行きます。

 地域住民の記憶をインタビューを通して収集しながら、個人写真や映像、私的文書、書面などの記録を集めて、市民アーカイブズ「思い出ライブラリ」を構築していくことを目指します。

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 老人の話はくどいとか言われたり、身内の人は、聴き飽きたとか言って殆ど耳を傾けないような印象があります。またシニアが書いた自分史などは、市民から見た貴重な記録だと思うのですが、図書館にも余り置いてはいないですし、辛らつに批判する意見も多々見かけます。
 でもどの町で伺ったシニアの話も、とても興味深く、机上でしかわからなかった戦後史、市民の生活や思いが、少しづつ繋がって行きます。戦後社会は、まさに普通の人々が作って行ったものだからです。

 以下、利根町で、市民アーカイブズ構想について講演した時の記録です。ご参考までに。

尚、私たちの研究室では、引き続き住民インタビューを通した市民アーカイブズ作りを継続しています。ご一緒に活動してくださる地域を募集しています。
 




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