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都市部の造り酒屋(#39 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)

社会・経済の変化・都市部の酒づくり

川崎ならではというものではありませんし、かつては近郊都市でも多く行われていた産業の例の一つに、酒造りがあります。
政策ニュース映画には、川崎市の造り酒屋の様子が取り上げられています。
既に存在していない酒蔵ですが、都市部にもこうした産業が存在していたということの記録として、貴重な映像です。

昭和54(1979)年1月15日「川崎の酒づくり」がそれで、既に高度成長期は終了しており、映像はモノクロですが、昭和2,30年代とは映像の美しさが違いますし、BGMやナレーションも、どこか洗練されています。

湯気の中で杜氏さんが炊きあげられた米を使って、酒の仕込みをしているシーンから始まります。
「まだ、明けきらぬ冬の朝。厳しい寒さをついて、川崎市多摩区にある造り酒屋では、日本酒の仕込みが行われています。」
とナレーションが入りますが、酒蔵の名前は言いません。
「この酒屋は、多摩水系の地下水を使って、明治20年から酒を造ってきました。」
との言葉と、最後に瓶詰をしている職人さんのはっぴに「多満正宗」の文字が辛うじて読めます。

図12

ここから推定すると、恐らく川崎市多摩区長尾にあった、「川崎酒造 有限会社」だと推定されます。神奈川には丹沢水系の水を使う蔵元が多いそうですが、ここは多摩川水系の水を使っており、それを由来とする「多満正宗」がこの蔵で造られていたそうです。

Webページ「神奈川の現存しない蔵元」に、この酒蔵のことが書かれています。第二次大戦中の企業整備令により、周辺の三軒の蔵元が合同してできた蔵元だそうです。

また、「神奈川酒蔵巡り記」では、平成7(1995)年の閉鎖直後の平成11(1999)年に、この蔵を訪れたときのことが書かれています。

ここでは元酒蔵の主人に聞き出しており、後継者がいないことと採算が合わないことが閉鎖の理由だとされています。
以下、引用ですが、非常に興味深い意見です。

「それに採算とるには量を造ることになるけど、そうすると通年で造ることになる。もともとここらは山岳地帯じゃないし、気温が高くてあまり酒造りがやりやすいわけじゃない。夏つくるとなると冷蔵設備とか人員とか設備投資・経費もさらにかさむし。」

必ずしも酒造りに適した土地だったというわけではなかったようです。
廃業によって、蔵そのものも閉鎖し現存していません。
映像では、酒造りの様子や蔵の建物などが映ります。
地域に根差した、小さな酒蔵だったようなので、その意味で、この映像は川崎の酒造りを示す貴重なものです。

図11

では、あの時代、なぜそこに造り酒屋があったのか、そしてそれがなぜ次々と廃業して行ったのでしょうか。
酒造りには水が重要だと言います。都市部には多くの人々が集まるため、近郊には必ず水源があるのが日本の都市の特徴です。近郊農業で米を作る農家が存在すれば、その水と併せて酒造りが可能ということになるので、かつては、都市近郊にも意外なほど多くの造り酒屋が存在していました。

その背景には、日本酒の市場が、大きかったこともあるでしょう。
戦後長い間、し好品としての酒にバリエーションはありませんでした。
以前盛り場のところで示したように、酒とビール、焼酎くらいしか居酒屋にはなかった時代が、非常に長かったわけです。

昭和35年02月23日_近代化された清掃_0129.mp4_000010643

洋酒を含め、現在では様々な種類の酒が、比較的安価で手に入るようになってきました。若者の日本酒離れは、しばしば指摘されます。
恐らくは、小さな酒蔵の酒を飲む必然性が、消費者側に薄れてきたと言うことなのです。
農業の場合、都市型として、新たな存在意義を見出していったのは前項で述べた通りですが、こと酒造に関しては、それなりの設備投資や労働力が必要でもあり、都市型酒造りとしては生き残れなかったということでしょう。
これも、経済社会の変化のうちの一つでもあるわけです。






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