翹楚篇 チャットGPT現代語訳⑰
37.安永三年の事なり -鷹山公が出会った旅の病人
原文
○安永三年の事なり、江戸御参府の御道中、鍋懸と太田原との間にての事なり、予か中押御供にて登るに、病人あたに行逢たり、世にハ斯る難義なるものもありけりとあたとハ病人をのせて村送するもの駕籠のことく仮令に拵成るもの通過て見るに、伊勢参宮人とみへて、あたの後に羽州米沢粡町粡町なりしか立町なりしか鍛冶町なりしや鉄炮屋町なりしや、年久けれハ覚束なし誰と書付たる笠掛てあり、
扨ハ御国ものなり、国の守の御通行に行逢奉るこそ彼か幸なり、国の民といへとも他邦にての病気知らすハいかゝすへき、今御通行の道にて我国の病人村送せらるゝを余所に見て過させ玉ふへきにあらす、此跡の駅に宿からせ看病人附置、所の医師を頼ミ、快気を得て後御国に帰さんにハと、
馬に乗替早乗して公の御駕籠へ馳つき、件のしか〱 伺まひらせしに、能ハ心付たり〱 、汝か見つけしこそ彼か幸なり、能ハ心付たり、能ハ心つきたり、兎も角もよろしくはからへとのたまはせたれハ、又乗返し御供の御家老島津左京へ達し、御先立某に量はせ、看病のため足軽夫方附置、近郷の医師なと頼ミて療治せしめしに、
月を経、快気を得て、恙なく看病人とともに御国へ下れり、追てきけハ、此もの生国越後のものにて、彼町某かもとに奉公してありしか、抜参宮抜 参宮とハ奉公中、私の旅 出叶かたけれハ御境関所の下向に煩しものなり、此もの御国へ下りつきしかハ、水をあひ御城北門のほとりに至り、ひたすらに御城を拝せしとぞ、
現代語訳
江戸への参府の道中で、鍋懸と太田原の間での出来事です。私は中押しの供(行列の中間での役目)としてお供していた時、病人に出会いました。世の中にはこんなにも苦しい状況にある人もいるのだと感じ、その病人は「仮の駕籠」(簡素に作られた仮の駕籠)に乗せられ、村へ送られていました。通り過ぎると、その病人は伊勢参りの者のようでしたが、その後ろに続く者の笠に「羽州米沢粡町」(もしくは立町、鍛冶町、鉄砲屋町)と書かれているのが見えました。正確な地名は年月が経っており、覚えていませんが、米沢の者であることは間違いありませんでした。
私は、これは御国の者に違いないと思い、「国の守である治憲公が通行している最中に、御国の民が他国で病気になり、知らぬ顔をして通り過ぎるわけにはいかない」と考えました。そこで、次の宿場で病人を看病するための人員を配置し、現地の医師に治療を依頼し、快気した後に御国に送り返すべきだと考えました。
すぐに馬に乗り替えて治憲公の御駕籠のもとへ急ぎ、件の病人のことを伺いました。治憲公は「よく気づいた、彼の幸せだ。よく気づいた、よく気づいた。とにかく、よろしく手配せよ」とおっしゃいました。そこで、私は再び馬に乗り、御家老の島津左京に伝え、さらに先立ちの者にも相談しました。そして、足軽を配置し、近郷の医師に治療を依頼し、病人を看病させました。
一ヶ月が経ち、病人は無事に快気し、看病人とともに御国へ戻ることができました。その後聞いた話では、その者は越後(現在の新潟県)の出身で、米沢の町のある者に奉公していたそうです。奉公中、私的に伊勢参りの旅に出ようとしましたが、体調を崩してしまい、帰ることができなかったのです。無事に御国に帰り着いた時、その者は御城の北門に至り、ひたすらに御城を拝んだと伝えられています。
38.黒田甲斐守長貞の御室 -鷹山公と遠縁となった親戚筋とのお付き合い
原文
○黒田甲斐守長貞の御室瑞耀院御名豊姫君と申奉りしハ綱憲公弾正大弼と称し奉り、御法名法林院殿映心と諡し奉るの御女にて、の通判もなく、主家を忍んて参宮せるをいふ黒田家へ御入輿ましませし、御方公にとりてハ御実方の御祖母にてましませり、安永七年十一月、御年七十七にてわつらはせ給ひしかハ、御老年の御病気御心元なく、
日々朝五時頃入らせられ、夜四時或九時ころの御帰り重らせらるゝに至てハ、御帰なく終夜御看病進られし事なり、斯るおほしめしにての御看病なれハ、御膳御薬の御すゝめより、御なてさすり進らるゝまて、御ミつからなし進られしハいふまてもなかりし、然とも御寿にも限りあり、同月廿六日の暁終に逝去ましませり、
斯る御取扱にてありけるほとに、黒田家の御家老より御家中挙て公の御徳に感奉り、是まてハ御代も多く替り来れるより、次第〱 に御遠々しく、御音信御通融の事も御互に御諸家御同様の御模様に成来れるの残念なり、御近類多くあれとも、末々御頼に存上奉るへきハ御家様ならてなし、尤も本家あれハ本家に超て存上奉るとハ申かたし、本家を除て今至近の御つゝき多くあれとも、此方々よりハ別て厚く御頼に存上奉るなり、
仍てハ此以後寒暑年始の御附届をはじめ、其外何事によらす、千之助へも公と瑞耀院様との御間のことく、各様より中老のものまて仰下され、是よりも中老より各様まての奉札もて申上られたし、尤千之助幼年微弱につき何方様へも御逢も致されぬ程なから、末々を御頼申上る事なれハ、御入下されし時ハいつも勝手座の間へ請待し奉り、御親敷拝顔を得奉り、諸事御物教を受奉られたし、
随て我々事も寒暑年始又吉凶の事ありて罷上るに、是まてハ御式台へ罷出申上奉りしなり、是等の事ハ是まての通心得居へし、其外時々折から罷上り御内々御機嫌をも伺奉りたし、其節は御自分様御居小屋まて罷出、恐なから伺奉りたし、此等の事家中挙ての願なりと、御家老吉田縫殿予か居小屋に来りて願しより、諸事瑞耀院様へ御附届のことく、御内々にて御親しき事にハ成たるなり、
斯りしほとなれハ、吉田ハいふ迄もなく、同役の渡部典膳、宮崎織部ともに時々予か居小屋へ来りて御機嫌を伺奉り、且幼君取そたての仕かた補佐の心得なんと、及なき予にも相談せる程の事にハなりぬ、
現代語訳
黒田甲斐守長貞の妻であられる瑞耀院(名は豊姫君と申し上げます)は、綱憲公(弾正大弼と称され、法林院殿映心と諡されました)の娘でした。彼女は、夫である黒田家に嫁ぎ、綱憲公の実方(母方)の祖母にあたります。安永七年(1778年)十一月、瑞耀院が77歳で病にかかり、老齢ゆえにその病気が深刻であることを憂慮されました。
治憲公は日々心配し、朝早く五時頃に見舞いに訪れ、夜も四時や九時に帰られることが続き、ついには一晩中看病に専念されました。その際、治憲公は、膳を進めたり、薬を与えたり、さらには寝台を整えるなど、全て自ら手をかけて看病されました。しかし、寿命には限りがあり、瑞耀院は同月26日の明け方に亡くなられました。
このように、治憲公の深い配慮と看病がありましたが、その際、黒田家の家老たちは感謝の念を抱きました。多くの代替わりを経た後、次第に両家の交流は疎遠になり、音信や通融(コミュニケーション)も他の家々と同様になってしまいました。しかし、瑞耀院様の死後も、黒田家としては近類(親戚)と頼るべき存在は治憲公以外にはいないと考え、寒中見舞いや年始の挨拶、その他何事においても、治憲公との交流を続けたいとの願いがありました。
これ以後、寒暑見舞いや年始の挨拶、さらには様々な折に、黒田家の中老の者たちが直接伺い、治憲公との親しい関係を続けるようになりました。特に、黒田家の千之助(幼君)がまだ幼く病弱であったため、どなたにも面会できない状況であったとしても、黒田家の者たちは末々(後々)に渡り治憲公に頼り、勝手座(黒田家の控えの間)で治憲公の教えを受けることを望んでいました。
これまでは、黒田家の者が参上する際、式台(控えの間)での挨拶にとどまっていましたが、今後はさらに親しく、治憲公の居間まで伺って御機嫌を伺いたいという願いがありました。吉田縫殿(黒田家の家老)が私のところに来てその願いを伝え、以後、瑞耀院様と治憲公のような親しい関係になるよう、黒田家全体が希望していることを告げました。
このような背景もあり、黒田家の吉田はもちろん、渡部典膳や宮崎織部といった他の同役も時折私の居間を訪れ、治憲公の御機嫌を伺い、幼君の教育や養育に関する相談をするようになりました。これは、予想を超えて私にまで相談されるほどの深い関係となったのです