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翹楚篇 チャットGPT現代語訳⑯


34.父母のため江戸詰のもの御国もとへ看病御暇給る事 -鷹山公が家臣に看病・介護休暇を与えたこと

原文

○父母のため江戸詰のもの御国もとへ看病御暇給る事、御父重定公御代明和三年の事なり、桜田御屋鋪の将神保作兵衛、其父道喜か病気につき、願の上御暇給りしか其はしめなり、
 然とも江戸詰の事ハ我に代りて跡を塞へき余計の人少く、亦家を離れてハ君につかふるの義を取事臣の常なれハ、縦令其父母の病ひ軽からすとも左のみ危程にも告こさぬより、看病御暇願ふに至らさるも亦あり、
 安永九年七月の事なり、御膳番蓼沼友四郎御供して江戸にあり、父平太か軽からぬ病と告来りしに、折もこそあれ、友四郎も病気にて勤仕不参の時なり、殊此節流行の病にて御近習おの〱 たをれて大半の不参なりし程に、看病御暇願かたく、只案しわつらひ心をいたましむるのミ、
 此節予を召ての御意に、平太か病気軽からぬよし、父子互に国を隔ての病、たれ〱 も同し心におもふへし、殊に友四郎か孝子なる其心押はかられて不便なり、常ならハ看病願も申出へきに、其身の不参中、殊にハ近習大半の不参、此節願はんハ義におひて成かたからん、跡ハ何とか間も合へし、手元の不自由ハ苦しからす、上より暇やらんに何かある、其身の病気たにさせる事なくハ、早々暇やりて看病させよとの御事なれハ、早速同役平賀周蔵をもて御暇たまはるよしを達せしかハ、病をおかし夜を日につきてはせ下りぬ、
 江戸御家老ハ四年詰交替の例なり、広居図書忠起ハ其人其任にたへたれハとて、安永五年七月つゝひて又二年詰の御差留あり、此時予を召ての御意に、図書か永つめ母子互に見まほしからん情おもひやられたり、老ぬれハさらぬ別のありときけハ、いよ〱 みまくほしき君哉とよみし古歌も、即彼等か母子のけふならめと、いとゝ不便におもふなり、彼の事ハ重職殊に同役もなし、然とも供家老本庄か詰合たれハ、江戸の事ハさせる間欠もあらしとの御事にて、三十余日母子対面の御暇賜りぬ、
 又安永七年六月の事なり、蓼沼友四郎此時も御供して江戸にあり、去月末母死去のよし告来り忌断に引籠れり、此節の愁傷見るに忍かたしとて、詰合の御膳番、御手水番、御小姓、一紙連名の訴文もて、忌五十日の内御国元へ下らせたきよし、友四郎への御暇願し事あり、其訴文の意を爰に書写しぬ、
 友四郎母死去のよし告来り、孝子の心底痛入なり、九十に近き祖母春中よりの病気、発足前にも心元なき程なから、両親揃ての取扱なれハ少しき心も安かりしに、母死したれハ祖母の看病、老父の身の上の心元なく、妻子近類あれとも妻ハ月を重し懐胎、夫か上に幼年の子多くあり、病身の老父か愁に沈ての心尽し、彼是案煩へるありさま、見るにたへかたけれハ、忌五十日の間御暇給はらハ、老父老祖母にもあひ、且老父の手当、病祖母看病の事なと、近族懇意のものに深く頼まハ、孝子の心少しき安かるへきか、例なき願なから、愁傷の容子朝夕見聞して忍かたけれは
 と願たれハ、能もいつれもか願ひしそ、とく〱 暇遣せとの御事ゆへ、願の通たるへきよしいひわたしけれハ、即日立て馳下り、忌あかぬ内に帰府せり、

現代語訳

 治憲公が、父母の看病のために江戸詰(江戸で勤務している者)に国元(藩領地)への休暇を与えたのは、御父・重定公の代、明和三年(1766年)のことで、最初の事例としては、桜田御屋敷に仕える神保作兵衛が、父・道喜の病気を理由に休暇をいただいたのが始まりでした。
 しかしながら、江戸詰の役目は重要で、代理を立てて仕事を埋める余計な人員も少なく、また、家を離れることは君主への忠誠を示すものであるため、たとえ父母の病が重くても、よほどの危険な状態でない限りは看病のための休暇を願い出ることができないこともありました。
 安永九年(1780年)七月のこと、御膳番(料理を担当する役職)の蓼沼友四郎が江戸に仕えていた時、彼の父・平太が重い病気にかかりましたが、その時は友四郎自身も病気で仕事に出られない状態でした。また、その頃、流行病が蔓延し、近習(側近)たちも次々に病に倒れ、仕事を休む者が多かったため、友四郎は看病の休暇を願い出ることができず、ただ心配し苦しむばかりでした。
 その時、治憲公が私を呼び、次のようにおっしゃいました。「平太の病気は軽くないようだ。父子が離れて暮らし、どちらも病に倒れているのは、誰にとっても同じように辛いことだろう。特に友四郎は親孝行で、その心情を察すると非常に気の毒だ。普段ならば看病のために休暇を願い出ても良いはずだが、このような状況では、特に近習が大半休んでいる今、願い出るのは義理に反することになってしまうだろう。だが、跡継ぎの者がなんとか埋め合わせをしているし、手元に不自由はないだろうから、早々に休暇を与え、父の看病をさせよ」とおっしゃいました。そこで早速、同役の平賀周蔵を通じて休暇が与えられ、友四郎は急ぎ国元へ駆けつけ、無事に父を看病しました。
 また、江戸家老(藩の江戸での最高職)は四年交代が例でしたが、広居図書忠起はその職務に堪えていたため、安永五年(1776年)には二年間延長されていました。その時も治憲公が私を呼び、「図書は長く江戸に務めているが、母子が互いに会いたいという気持ちはわかる。老いて別れが近づくと、ますます会いたい気持ちが募るもので、昔の歌にも『老い先短い者ほど、会いたい気持ちが強い』とあるように、非常に気の毒だ。とはいえ、図書は重職にあり、江戸のことも滞りなく務めているので、三十日余りの休暇を与えて母子対面させることとしよう」との御意がありました。
 また、安永七年(1778年)六月、蓼沼友四郎は江戸での任務中に、母の死去の知らせを受けて喪に服していました。治憲公は、その悲しみを思いやり、友四郎に対して御膳番、御手水番、御小姓が連名で五十日の喪の間に国元に下ることを願い出ました。その訴文は次の通りです。
 「友四郎の母の死去の知らせが届きました。親孝行な友四郎の心は深く痛んでいることでしょう。九十に近い祖母が長い間病気で、旅立つ前にも心配でなりませんでしたが、両親が揃っていたので少しは安心していました。しかし、母が亡くなった今、祖母の看病や老父のことが心配でなりません。妻や子供たちはいますが、妻は妊娠中で、幼い子供も多く、病気の老父が愁いに沈んでいる様子を思うと、非常に心が痛みます。五十日の喪の間、国元に下ることが許されれば、老父や祖母に会い、手当や看病をし、近親者に頼むこともできるので、友四郎の心も少しは落ち着くことでしょう。例外的な願いではありますが、悲しみに暮れる友四郎を思うと耐え難いものがありますので、何卒ご配慮いただきますようお願い申し上げます」。
 この訴文により、友四郎は休暇を許され、その日のうちに国元へ駆けつけ、喪が明ける前に江戸へ帰りました

35.御家に看病断の御例なかりしを -鷹山公が整備した看病・介護制度

原文

○御家に看病断の御例なかりしを、安永九年二月仰出しありて、後ハ人々心のまゝに看病する事にハなりぬ、其仰出しに曰、
 家内におひて父母妻子の病にハ、其趣を達し勤を引て看病いたすへく候、祖父祖母兄弟姉妹伯父伯母孫甥姪舅等に至てハ、外に看病人なく見放かたき子細あらハ、伺の上差図にまかすへき事、但他家相続のものといへとも、実父母の看病とならハ届一通にて引へし、其外の親類ハ本文の通たるへし、一親類ありといへとも、老年或幼少等にて看病叶かたきか、又ハ親類絶てなきに至てハ、組合近所朋友の内申合懇に看病して遣るへき事、

現代語訳

 安永九年(1780年)二月に、治憲公が看病に関して新たな御例(お達し)を出され、以後は人々が心のままに看病できるようになりました。その御例では次のように述べられています。
 「家の中において、父母や妻子が病にかかった場合、その旨を伝え、仕事を引き継ぎ、看病に専念することができる。また、祖父母、兄弟姉妹、伯父伯母、孫、甥姪、舅(しゅうと)などの親族が病にかかり、看病する者が他におらず、見放すことができない場合は、伺いを立てた上で、指示に従って看病を行うことができる。ただし、他家に養子に入った者であっても、実の父母の看病に限っては、届出書一通で看病が許される。それ以外の親族については、本文の規定に従うべきである。一親類がいても、その者が高齢や幼少で看病が難しい場合や、親類が絶えていない場合には、組合や近所の友人たちが相談し合い、懇意に看病を行うようにすべきである。」

36.何年の事なりしや其年ハわすれぬ -鷹山公の病の領民に対する心遣い

原文

○何年の事なりしや其年ハわすれぬ、江戸におはせし時の事なり、挑灯男と看板懸ての見せ物あり、此男下唇長き生にて、其唇を取て鼻を覆へハ、面縮ミ鼻隠れて面短くなり、唇をはつせハ常の面になる、爰をもて挑灯の張つ畳つするかことくなれハとて、挑灯男とハ名つけし也、此ミせものきのふ彼所にあり、けふハ此所に出たりと珍しく沙汰しける、
 されハ御屋鋪の夫方見て正しく御国何村の誰村 の名其ものゝ名も聞たりしかわすれぬな りといひしより、のほりて公の御耳に聞へしかハ、縦令不具の生なれハとて、手足全く具るといへハ、其相応の業もあるへし、面をさらして見せものとならんハ、さそ口惜もおもはん、されと家内はこくむたつきのなく賃銀にめてゝのゆへならん、早々其賃銀をあたへて国に帰せとの御事にて、御国に帰り其家業にハつきぬ、

現代語訳

いつのことか、その年は忘れられませんが、江戸にいらっしゃった時のことです。「挑灯男」という看板を掲げた見世物がありました。この男は生まれつき下唇が非常に長く、その唇を取って鼻を覆うと、顔が縮んで鼻が隠れ、顔が短く見えました。そして唇を離すと普通の顔に戻るという、挑灯(提灯)の張り縮める様子に似ているため、挑灯男という名がつけられました。この見世物は、昨日はあちらで、今日はここで出ていると話題になっていました。
そのため、御屋敷の者が見物し、「確かにその男は、御国(藩領)の○○村の誰々である」と名前を聞いたのですが、詳しい名前は忘れてしまいました。しかし、その話が治憲公の耳に入ると、治憲公は次のようにおっしゃいました。「たとえ生まれつき顔に不具合があったとしても、手足が無事であるならば、それなりの仕事に就くこともできるだろう。顔を晒して見世物になるのは、さぞかし悔しい思いをしているに違いない。だが、家族が貧しく生計が立たず、この見世物に出ることで賃銀を得ているのだろう。早急に賃銀を与え、国元に帰してやれ」。その後、その男は御国に帰り、家業に就きました。


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