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翹楚篇 チャットGPTで現代語訳 序文3篇

本PJで原文とした文章は「米沢市立図書館HP」に記載されている「翻刻版」データを使用しています。


翹楚篇序

原文

  太華翁之翹楚篇者餐霞館之起居注也曹劌曰君挙必書書而不法後嗣何観人君之言動書以為則者三代之遺直也
 夫経国之業為可法為可継者君之分也君有善不朽之後世者臣之職也文思恭倹如老侯而無載之而遺後嗣子孫者誰辜乎
 翁少壮而好古厚学甞為中庶子其遺補其闕者有年熟其起居者誰如翁乎
 翁之此挙也可謂不畔矣簡也庸愚謬豪老侯殊遇又為翁所推以忘年之交及命叙寧可以媿辞乎寧可以媿辞乎

   寛政庚戌孟秋 本藩提学神保簡拜 書於興譲館

現代語訳

序文
 「翹楚篇」というのは、太華翁が記した「餐霞館(さんかかん)」の起居録(生活の記録)です。曹劌(そうけい)は言いました。「君主が行動を起こす時には、必ず記録に残さなければならない。それを書かずして、後の世代は何を学ぶべきであろうか」と。人の上に立つ者の言動を記録し、それを後世の模範とすることは、古代三代の王朝から続く真っ直ぐな伝統です。
 国を治める仕事において、模範となり、後世に受け継ぐべきものを残すことは、君主の役割です。そして、君主が後世に永く残る善行を成すために尽力するのは臣下の役割です。文章を慎み深く、倹約を守って書くことは、まるで古い侯爵のようですが、それを記録せずに後の子孫に遺さなかった者があったでしょうか?それは一体誰の責任なのでしょうか?
 太華翁は若い頃から古典を愛し、深い学識を持っていました。彼はかつて中庶子という官職に就き、欠けたところを補い、長年にわたりその職務を全うしました。日々の記録を取るにふさわしい人物は、誰よりも太華翁のような者です。太華翁がこの仕事を手がけたことは、道から外れたことではないといえましょう。
 この拙文を書いた私は、愚かな者にすぎませんが、幸運にも老侯(古い侯爵)から特別な待遇を受け、太華翁から年齢を超えた友人として信頼されました。今、命じられてこの序文を記すにあたり、果たして辞退することができるでしょうか?いや、辞退することはできません。
   寛政庚戌(1790年)秋の初め 本藩の提学、神保簡(じんぼうかん)興譲館にて書

翹楚篇叙

原文

 自二古之法言法行凡人君之旦誦習可以鑑戒者載籍巋然々至其義融通施之行事則期之老成豈得遽望之少主幼君哉
 且人恒踈乎遠而密乎近其近而密者誰如父兄師友也源士雲条記鷹山老侯為君之徳以進之世子其意欲不必求之遠而近模放之目前祖侯之所為也
 先有焉廋篇以献于公尋作政語以献于世子今又進此書士雲之於忠葢其性之自然矣
 初余当老侯為世子時承乏賓師之次以故自其襲封為君至遜位営兎裘親仰其仁明二十有余年既而余就仕于本国然亦間年摳承于今侯于東都之邸者猶老侯在位之時焉故毎聞其所言行日益多矣况親信左右於夙夜者乎
 士雲名以翹楚亦刈其十之謂耳余甞窃欲有此篇而非外臣之所可敢為也今見士雲之所録実適我願為題其首以還之
  尾張国校督学細井徳民撰

現代語訳

序文
 古代からの伝統において、人君(君主)が言葉や行動で守るべき模範がありました。君主の日々の学びや誡めとするべき教訓は、書物に記録され、立派に伝えられてきました。しかし、その教えを日常の行動に適用し、真の老成(成熟した人物)になるには、簡単に成し遂げられることではありません。若い主君や幼君には、特にそうでしょう。
 また、人は遠いものには疎く、近くのものには親しみを感じるものです。そして、最も近くにいて親しい者とは、父や兄、師、友のことです。源士雲(げんしうん)は、鷹山(ようざん)老侯の徳を世子(次代の君主)に伝えようとし、その意図は遠くを求めず、身近な模範を重んじるものでした。それは、祖侯が既に示してきたことでもありました。
 かつて、士雲は「廋篇(そうへん)」を献公に献上し、その後に「政語(せいご)」を世子に献上しました。そして今、またこの書を進呈するのです。士雲の忠誠心は、彼の本質そのものであることが明らかです。
 私が老侯(鷹山侯)が世子であった時、賓師(ひんし)の役割を務めておりました。その後、彼が君主となり、さらに位を譲り退隠した時まで、私は20年以上にわたりその仁徳と英明さを仰ぎ続けてきました。そして、私は本国での仕官に従事していましたが、東都の邸宅にいる今侯に仕えていた時も、まるで老侯が在位している時のようでした。そのため、彼の言動を聞き、日々学び取ることはますます増えました。特に、朝夕に彼の側近として仕える者たちは、さらに多くを学んでいることでしょう。
 士雲が「翹楚(ぎょうしゅ)」と名付けたこの書も、実に彼の忠誠の一端を示すものであります。私は密かに、このような書を著したいと長年願っていましたが、外臣である私にはそれを行う勇気はありませんでした。今、士雲が記録したこの書を見ることができ、私の願いは叶いました。私はこれを題して、その序文を書き残す次第です。
   尾張国 校督学 細井徳民 撰

翹楚篇序 

原文

 臣鵬嘗刈楚不識公以下世々先公之嘉言善行名曰翹楚然奕世之久行事之多未能畢其業
 今年世子出就外舍老公謹庭訓誡牆面師傅保以其任左右前後之書過徹膳進善敢諌無一不備可謂尽矣葢
 子之於父無不謂吾父仁無不謂吾カ父智况老公之仁智而世子之孝乎伝曰孝者善継人之志善述人之事者也
 当此時老公之言行常置諸書案則於其助継与述不無小補是所以別録其言行献之机右也明君之言行無言不嘉無行不善何止数十条若夫遺漏尋将録焉

   寛政元年十一月
   致仕臣源鵬謹序

現代語訳

序文
 私はかつて楚(ぎょうしゅ、模範的人物)を刈り取る(学び取る)役割を担った者であり、先公(亡くなった先代の君主)から代々伝わる立派な言葉や善行を理解していませんでした。しかし、その名は「翹楚」として受け継がれてきました。代を重ね、多くの事柄が行われたものの、まだその全てを記録し尽くすことはできていません。
 今年、世子(君主の後継者)は外邸に出て、そこで生活を始めました。老公(先代の君主)は慎重に家庭の教えを授け、壁に向かって学ぶように指導し、師傅(しふ)や保(ほ、世話役)たちにその任務を任せました。彼らは、世子を側近で支え、時に厳しく教え、食事の席では善行を進め、誤りがあれば率直に諫言しました。全ての面において不足はなく、まさに尽くされたと言えるでしょう。
 子(息子)は父を称賛し、どのような場合でも「私の父は仁(優れた徳)である」「私の父は智(知恵深い)である」と言います。ましてや、老公の仁智(仁徳と知恵)を見習う世子の孝行ぶりは、さらに素晴らしいものです。『伝(伝記)』には、「孝とは、人の志をうまく受け継ぎ、行いを良く伝えることだ」とあります。
 この時期に、老公の言行は常に書物の上に置かれ、世子がそれを学ぶ手助けとなっています。そのため、別にその言行を記録して、これを右府(右近衛府)に献上するのです。明君(優れた君主)の言行には、一つとして善でないものや、立派でないものはありません。その数は、数十項目に及びます。もしも何か漏れているものがあれば、後に追加して記録する予定です。
   寛政元年十一月
   
致仕(引退した)臣 源鵬(げんほう) 謹んで序す

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