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翹楚篇 チャットGPT現代語訳⑤


⑧公学問を好たまひ -鷹山公の学問に対する姿勢①

原文

○ 公学問を好たまひ、
 平洲先生、姓ハ紀、名ハ徳民、字を世馨と云、平洲と号し、俗名を細井甚三郎と云、当時尾張の処士として江戸に住し、今挙られて尾州家の儒臣たり、
 鶴台先生、太室先生、 姓ハ瀧、名ハ長愷、字ハ弥八、鶴台と号し、俗名を瀧弥八と云、毛利家の儒臣たり、姓ハ渋井、名ハ孝徳、字ハ子章、太室と号し、俗名を渋井平左衛門と云、堀田家の儒臣たるか後挙られて参政たり、
 大湫先生姓ハ南宮、名ハ岳、字ハ喬卿、大湫と号し、俗名を南宮弥六郎と云、尾張の処士として江戸に任せし人なり、
 を請して常に師事し玉ひ、又諸臣の中にも切瑳のためにハ友事したまへるもありしなり、

現代語訳

 治憲公は学問を非常に好まれました。
 彼が師事された平洲先生(へいしゅうせんせい)は、姓を紀(き)、名を徳民(とくみん)、字(あざな)を世馨(せいけい)といい、「平洲(へいしゅう)」と号しました。俗名は細井甚三郎(ほそい じんざぶろう)といい、当時は尾張の処士(しょし、特定の役職を持たない学者)として江戸に住んでいましたが、後に尾張徳川家の儒臣(じゅしん、儒教を学ぶ家臣)になりました。
 また、鶴台先生(かくだいせんせい)と太室先生(たいしつせんせい)も治憲公の師でした。鶴台先生は、姓を瀧(たき)、名を長愷(ちょうがい)、字を弥八(やはち)といい、「鶴台(かくだい)」と号し、俗名を瀧弥八(たき やはち)といいます。彼は毛利家の儒臣でした。
 太室先生は、姓を渋井(しぶい)、名を孝徳(こうとく)、字を子章(ししょう)といい、「太室(たいしつ)」と号し、俗名を渋井平左衛門(しぶい へいざえもん)といいます。彼は堀田家の儒臣を務め、後に参政(政治に参画する役職)に就きました。
 さらに、大湫先生(おおつぶせんせい)は、姓を南宮(なんぐう)、名を岳(がく)、字を喬卿(きょうけい)といい、「大湫(おおつぶ)」と号しました。俗名は南宮弥六郎(なんぐう やろくろう)といい、尾張の処士として江戸に仕えていました。
 治憲公はこれらの先生方を招いて常に師事され、また、諸臣の中にも学問を切磋琢磨する友人として交わる者たちがいました。

⑨平洲先生を請して -鷹山公の学問に対する姿勢②

原文

○平洲先生を請して経書の講釈を聞たまひ、兼て御家老御用人より外様勤仕の諸士まてに侍聴せしめたまふ、
 或日大学の講釈聞玉ひし時の事なり、其日しか〱 の事ありて朝はやく起たまひたるより頻りに御睡を催されし事あり、進て先生へのたまひし御言葉に、
 今朝はやく起たるより頻にねふりを催して聖言を聞の礼を失せり、此罪何をもてか補侍らむとのたまひしかハ、
 侍聴の群臣おの〱 驚感しあへるなり、

現代語訳

 治憲公は、平洲先生を招いて儒教の経書(経典)の講義を聞かれました。さらに、その場には御家老や御用人だけでなく、外様(そとざま、下級の武士)として仕える諸士まで同席して聴講させました。
 ある日、「大学」の講義をお聞きになった時のことです。その日は早朝からさまざまな用事があり、朝早くに起きられたため、頻繁に眠気を催されることがありました。講義の後、治憲公は平洲先生に次のように仰せになりました。
 「今朝は早く起きたため、度々眠気を催し、聖人の言葉を聞く際の礼を失いました。この罪を、いかにして償うべきでしょうか。」
このお言葉を聞いた同席していた群臣たちは皆、深く驚き、感銘を受けました。


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