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翹楚篇 チャットGPT現代語訳⑱
39.安永七年江戸におはせし時の事 -鷹山公と養父
原文
○安永七年江戸におはせし時の事なり、急の御用とめされて御目見申上しに、只うつむかせ給ひて何の御意もなし、いかゝの御事と伺奉れハ、声をあけて泣玉へるのみ、怪ミ見上て、何のゆへにてましますやらんと伺奉りしに、其御用をハのたまはて、
我小家より斯る御大家を続る事本望何か是に過ん、是といふも畢境ハ殿様の有かたきおほしめしよりなり、然らハ幾はくの心力をも尽して孝行らしき御つかへかたもあらんに、御壮健にましませハ、千万年もさかえましますへき様なる心たのミよりおろそかに過しの口惜きとのたまひて、ひたなきになけかせ玉ひし程に、
猶もあやしく其故を伺まひらせし時、今図書江戸御家老広居か出て大殿様御不例の早飛脚か着しといひきけし、尤さして御心もとなく存上るほとの御容子にハなきといへと、御案し申さん事を恐て、斯ハいひおこせしならんと御なけきやまさりけるか、御涙を押られ図書へ今相談せり、何の道にも御容子の御心元なけれハ、汝と玄寿御例医三潴とを下して御容体を伺奉るか差当りての急なり、太義なから早々馳下りて御容子を委しくいひおこせ、又心に及ん程ハ年寄共へ能相談せよとのたまはせぬ、
此日ハ十月の十六日、彼是するうち夜もふけ、又ハ御用もありてあすの立にハ叶かたく、翌々十八日の立と極し、されハ翌十七日の夜旅装も揃ふて追付立んとする所へ、急の御用と召れしかハ、いそき出て御目見し奉るに、今又飛脚付り、御容子重らせられたれハ官医の内願ふて下せといひおこせり、官医衆願の事ハ其運いひ付たり、扨御例の有無ハ知かたけれと、父のための看病とならハいかて御ゆるしのなかるへき、早速馳下りて看病し奉らん、夜を日に継ての下りなれハ大勢の供つれてハ其運あしかりなん、
例の行列大半ハ残しおけ、兵三郎御供御家老中条至資も残しおかん、汝一人押の供せよ、仍てハ汝にいひつけ置たる御機嫌伺の使ハ浅間登理御 手水番に代らせよ、何かれ図書に能談し頭取して下りの事を量へとのたまはせたれハ、浅間代りて、三潴と幸姫君の御使山吉七郎左衛門幸 姫君御用人と翌十八日早追駕籠にて立ぬ、
扨官医衆の下りハ何程急きても、あすの立にハ成かたからん、一刻もはやく巧者ならん医師を下せとの御事にて、松平肥前守様御扶持人徳永栄庵今 御側医となり亨庵とあらたむ御 頼、是も同日立て下れり、官医にてハ橘隆庵老の嫡子元春と申せし方を御頼ありしなり、
扨御看病御暇御願の事ハ余の事と違て即日御暇も下るへし、然らハ御礼として御老中御廻直々御下りあるへけれハ、御供ハおの〱旅装束たるへし、然る時ハ御供揃置ての御願なるへし、廿日に御願、即日の御発駕と夜を日継て取運し程に、十九日にハ其取運も大半に揃て、あすの御願と混雑せる所へ、道中二日半の早飛脚到着、去る十四日の夜より十五日まての御容子甚よろしく、少しも御気遣進らるゝ事なく、
官医衆御願にも及はぬよしなりけれハ、御欽斜ならす、御看病御願、官医御願にも及はせ玉はす、御欽のあまり大宴をもふけられ、諸士に御酒玉はりし、
現代語訳
安永七年、江戸におられた時のことです。急な御用でお目見えすることになり、参上しましたが、治憲公はうつむかれたままで何もおっしゃいませんでした。不思議に思い、「いかがなされましたか」とお伺いすると、声をあげて泣いていらっしゃいました。驚いて見上げ、「何があったのでしょうか」と改めて伺ったところ、治憲公は次のようにおっしゃいました。
「私のような小家(小さな家系)から、こんなに大きな家を続けることができるのは本望であり、これ以上のことはありません。この成功も、すべて殿様の有り難いご配慮のおかげです。しかし、もし私が心からの力を尽くし、孝行な仕え方をしていたならば、殿様は何千年も栄えることができるようにお見受けしていました。それなのに、私がその思いをおろそかにしてしまい、悔しい限りです」と言われ、涙ながらに泣き続けられました。
それでもなお理由を伺うと、「今、広居図書(御家老)が出て、大殿様の体調が優れないという早飛脚が届いた。特に深刻な様子ではないが、心配でならないので、このように知らせが届いたのだろう」とのことでした。治憲公はさらに悲しみを募らせ、涙を押し隠しながら広居図書と相談し、「もし御容態が不安定なら、汝と玄寿、そして御例医である三潴を送り、御容態を伺わせるのが急務だ」とおっしゃいました。そして、「迅速に駆けつけて御容態を詳しく報告し、また年寄たちともよく相談するように」との指示がありました。
その日は十月十六日で、諸事を進めるうちに夜も更け、さらに御用もあったため、翌日の出発は叶わず、十八日に立つことに決定しました。翌十七日の夜、旅装を整えて出発しようとした時、再び急な御用でお呼び出しがありました。そこで参上すると、また早飛脚が届き、「御容態が悪化したため、官医の派遣を求める」との知らせがありました。治憲公は「官医衆を派遣するのは当然のことだが、父のための看病であれば、許しがないわけがない。早く下りて看病に当たれ」との御指示でした。
ただし、大勢の供を連れての旅は運が悪くなる恐れがあるため、行列の大半は残し、家老の島津左京も残すこととし、「汝一人で供をせよ」との指示がありました。そして、「浅間登理に代わって、御手水番としての使いを務めさせよ」とのことでした。そこで浅間が代わり、三潴とともに十八日早朝に急ぎ出発しました。
官医の下りはどんなに急いでも翌日の立ちは難しいため、治憲公は「一刻も早く腕の立つ医師を送れ」との指示を出され、松平肥前守様の扶持医である徳永栄庵を頼み、即日立たせました。御例医としては橘隆庵の嫡子、元春に依頼されました。
看病に関する御暇願(正式な許可)はすぐに下されるはずで、御老中が直接御下りされる際には、御供を揃えての出発になるはずでした。十九日にはその準備も大半整い、翌日の御願(許可)に向けて準備していましたが、道中二日半の早飛脚が到着し、十四日の夜から十五日にかけて御容態が大いに良くなり、心配は不要とのことでした。
そのため、看病のための御暇願や官医の派遣も不要となり、治憲公は大いに安心されました。御容態が安定されたことを祝し、大宴を催され、諸士にも御酒を賜りました。
40.天明七年の事なり -鷹山公と実父
原文
○天明七年の事なり、御実父長門守種美公仮初ならぬ腫物に泥せ給へる事を聞玉ひ、そふそく御側外科堀内易庵を登せ御附置れて、時々の御容子伺はせられける、無名の腫物難治の御症と聞せられしより、常ハ是のみ事としたまへる書物さへ廃させられ、書案のもとに夜白只黙座ましまして御心をいため給へる御ありさま、中々拙き筆の形容しまひらすへきにあらす、
されハ昵近しまひらするもの慰め奉らまくおもひて、四方のけしき或むかし今の物語なと申上るに、只一通の御いらひのみにて実に聞せ給ひしか聞せ給はぬにやも知られぬほとなり、あまりにいたませらるゝ事の甚しく、病の浸してわつらはせたまはん事を恐まひらするより、御歩行に御気をなくさめ玉へなと強て諌奉るものゝあれハ、又その諌にももとり給はす、
其もの召供して御庭を一めくりめくり玉へとも、遂御一言の御咄もなかりし、斯りし御容子なりけれハ、御左右に給仕し奉るもの只手をおろし御顔を見上まひらするのミ、遂無言にて時をもて退し事なり、
御腫物と聞給ひしハ五月の末つかたにて、八月の中旬に旅立せ玉へハ、かゝる御容子にわたらせ玉ひしハ凡九十日にも近かるへし、斯御物思にわつらはせ給へるを、予か折々召れし時の御意の端々をもて推はかり参らすれハ、
さそく御登まし〱 、親しく御容子も伺はせたまひ、思召のまゝに御看病成し進られたく思めせとも、義不義の境むつかしく泥わつらはせ玉ひしなり、夫をいかにといふに、御隠居あらせられてハ江戸に御住居の筈なるを、御痛所のため御国元赤湯御湯治の御願にて御国にましませハ、御看病とての御願も御憚ワバカリあり、御例の事も亦御覚束なく、又外に御決断のなしにくゝ思し泥ませ給ひけれハ、
君家御不如意につき累年半知御借上あり、猶も御行立なけれハ重き倹約を命せられ、諸金主へ永き年賦の御頼あり、御家中へ三ヶ年の増出金なと仰付られしも去年なるに、御実家のため少からぬ御入料費し玉ふ事の御気かゝりなり、
当御家の御相続ましますからラハ御家のため御国民のためとならハ、幾はく費へさせ給はんも元より其筈の事なから、御実家のために費させ玉ふ事、御家中に対せられての御義理覚束なきとの思召より、登らせ給ふの義に当るか、登らせ玉はぬの義に当るか、此境御決断成かたく御胸中を苦しめ給ひしなり、
されハ是かために御看病を成し給はさらんも御孝義の欠て、御国民に臨ませ給ふ御行にあらす、又御実家のために御家中に対せらるゝの義を欠せ玉はんも御本意のなけれハとて、猶又御手元きひしく御倹約を用させられ、年々進らるゝ御仕切金をくり出して登らせらるへきとの御事にて、遂御願あり、御出府ハなされしなり、
扨此御物思に泥せられし内、折々予をめして御義論の事あり、其節々の御物語の内二三ヶ条爰に記す、
或時の御意に、扨我等か不孝の罪のかれかたし、正しく御胤を受まひらせて生れし父上と、養はれまひらせし父上と、義における情における愛敬の心斉しかるへき筈なるに、大殿様の御事ハ此暑には泥せたまはんか、此寒さにハあたらせ玉ふましきやと、暑き寒き雨にも風にも御案申上ること、実に誠に心はなれすおもひ奉る事也、長門守様御事も斉しく御案し上筈なるに、いとけなきより御わかれ申、折々の御目見さへ疏く打過まひらせしゆへにや、今八十里あなたに置まひらせて、おもひ上まひらするの日々ならぬハいかゝの事にや、大殿様をおもひ上奉るにくらへて大に親疎ある事、不孝の罪何か遁るゝ所あらんと、千々悔ませたまふハ恐入て伺奉りしなり、
又或時の御咄に、きのふの暑さに鉢の木に水灌かせへきとおもひつきし、父上の御事を案まひらする間に、何そ鉢の木に心のつくへき、斯不孝にハ生しと無念におもふてやめしとのたまはせし、
亦或日の御咄に、誠に残念なる事あり、きのふ奥へゆき、茶の間にて茶をのミたり、女中ともの事なれハ此節の容子を気の毒におもひ、何を哉機嫌をとり気を慰めんとて、様々おもしろおかしき事をかたりあふて居るをきく内、おかしき落し咄におもはすふき出してくつと笑ひし、此節おかしき心ハなき筈なるにとおもへハ、女中ともへも恥しく、其まゝ立て帰れりとのたまはせぬ、
現代語訳
天明7年のことです。御実父である長門守種美公が、決して軽くない腫物(腫瘍)の病にかかられたという知らせを受けると、すぐに御側の外科医である堀内易庵を江戸から召し、付けておき、時折その様子を報告させました。その腫物は名前のない難治の病だと聞かれたので、普段は大切にしている書物でさえも手を止められ、書案の前でただ黙って座り、日夜思い悩んでおられました。その姿は、筆では到底表現できないほどのものでした。
親しい者が何とか慰めようと考え、四方の出来事や、昔や今の話を差し上げましたが、公はただ一言返されるのみで、本当にそれを聞いておられたのかどうかも分からないほどの状態でした。その痛みが非常に深く、病がさらに悪化し、苦しみが増すことを恐れて、強いて歩行を勧めた者もいましたが、その諫言にも耳を傾けられませんでした。
従者が庭を一回りするようにと勧めても、最後まで一言も発されることはなく、そのような状態が続いたのです。そのため、左右に仕えていた者たちは、ただ手を下ろし、公の顔を見上げるだけで、無言のまま時間が過ぎていきました。
腫物の知らせを受けたのは5月の末頃で、8月の中旬に出発されるまで、このような状況が約90日にも及んだのです。このように深く思い悩んでおられる様子を、私は時折召されて話された内容の断片から推し量ることができました。
すぐに出発して、父君の様子を直に伺い、心のままに看病をしたいとは思っていたものの、義理と不義の境界が非常に難しく、公は悩まれていました。どういうことかと申しますと、隠居されているため本来は江戸に住まわれるはずなのに、病のために国元の赤湯での湯治を願い出て国元にいらっしゃったので、看病を願い出ることすらも憚られました。また、通例の手続きについても定かではなく、他に決断を下すことも難しいと考えられておられました。
公は御家の不調に伴って、長年にわたり資金の借り入れがあり、さらに出府されなければならないとなると、厳しい倹約を命じられ、また金主に長期の年賦を頼んだり、家臣に対して三年間の特別出費を命じられたばかりの昨年のことで、御実家のために少なからぬ金額を費やすことが公の心にかかっていたのです。
この御家を相続されたときから、公は御家や国民のためならいくら費用がかかろうと、それは当然のこととして受け入れていました。しかし、御実家のために費用をかけることについては、御家中に対しての義理が曖昧になるとの思いから、父君のもとへ登るべきか、あるいは登らないべきか、この境界で決断を下すことができず、胸中で非常に苦しんでおられました。
そのため、看病をしなければ孝行の心が欠けると感じ、国民に対して公としての行いに欠けることになるのではと悩まれ、また、御実家のために御家中に対しての義理を欠くことも本意ではないとお考えでした。そのため、さらに倹約を強め、毎年の仕切金をくり出し、出府するための準備を進められたのです。そして、最終的には、出府の願いを出され、公は出発されました。
このように深い悩みの中で、時折私を召して義理についての議論をされることがありました。その中でいくつか印象に残った言葉をここに記します。
ある時、公はこうおっしゃいました。「私は不孝の罪を免れられないだろう。正しく血を分けた父君と、養っていただいた父君の間で、義理においても情においても、敬愛の心は等しくあるべきはずなのに、大殿様のことは、暑いときには暑さに苦しんでおられるのではないか、寒いときには寒さに震えておられるのではないかと、常に天候の変化にかかわらず案じ申し上げている。しかし、長門守様については幼い頃に別れ、たまにお会いすることも少なく過ぎてしまったためか、今八十里も離れた場所にいらっしゃると、日々心配することが少ない。これはどういうことだろう。大殿様のことを案じる心と比べて、長門守様に対する思いがまるで親疎があるかのようだ。不孝の罪から逃れることはできないだろう」と、千々に悔いられておられました。私はこれを恐れ多く思いながら伺っていました。
また、別の日にはこうおっしゃいました。「昨日の暑さで、鉢植えに水をやらなければと思いついたが、父君のことを案じている最中に、どうして鉢植えのことなどに気が回るだろうか。こうして不孝な心で生きていることが無念でならない」とも仰せられました。
さらに、ある日には「本当に残念なことがあった。昨日、奥の間に行って、茶の間で茶を飲んだ。女中たちのことだから、この厳しい状況に気を遣い、どうにかして彼女たちの機嫌をとり、気を慰めようと思い、いろいろと面白おかしい話をしていた。その話の中で、思わずおかしくなって吹き出して笑ってしまった。この状況でおかしく感じることがあってはならないはずなのにと思い、女中たちにも恥ずかしく感じ、そのまま立ち去って戻った」と仰せられました。