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管見談 チャットGPTで現代語訳 ②公儀-4



7.治世において「寛容」と「厳しさ」をどう使い分けるべきか

原文

 一、鄭子有病謂子大叔曰、我死子必為政、唯有徳者能以寛服民、其次莫及猛、夫火ハ烈民望而畏之故無死、焉水懦弱也、民押而翫之故多死、焉寛難。
 疾事数日而卒。
 大叔為政不忍猛而寛、鄭国多盗取三人於萑苻之沢、大叔悔之曰、吾早従夫子不及此興徒兵以萑苻之盗尽殺之盗少止、
 仲尼曰、善哉政寛則民慢慢則糾之以猛猛時則民残残則施之以ス寛々以済猛猛以済寛政、是以和書曰、嗚呼威克厥愛克愛時其威允罔功、
 当世の如きハ猛を行時なるへし、然共本固からすして猛は行れ難きなり

現代語訳

 一、鄭(てい)の子が病にかかり、子大叔(したいしゅく)に言いました。「私が死んだら、お前が政を行うことになる。徳のある者だけが寛容で民を治めることができる。その次に良いのは、厳しさで治めることだ。火は猛々しく、民はそれを見て恐れ、火からは逃れるために死ぬことはない。しかし、水は柔弱で、民はそれを押しつけたり弄んだりするため、溺れて死ぬことが多い。寛容で治めるのは難しい」と。
 その後、子は数日間病に苦しみ、亡くなりました。
 子大叔が政を行うことになりましたが、厳しさを行うことができず、寛容にしてしまいました。すると鄭国では盗賊が増え、萑苻(かんぷ)の沢で三人の盗賊が捕まりました。子大叔はこれを悔い、「もっと早く夫子(先人)の教えに従っていれば、こんなことにはならなかった」と言いました。そして、兵を動員し、萑苻の盗賊を皆殺しにしました。その後、盗賊は少し収まりました。
 仲尼(孔子)はこう言いました。「素晴らしい。政(まつりごと)は寛大であれば民は怠け、怠けている時には厳しさで律する。厳しさが行き過ぎれば、民は残忍になり、残忍な時には寛容で治める。寛大さと厳しさを交互に用いることが大切だ。だから、『書経』には、『威厳と愛情をもって治めよ。愛情を持つ時には、その威厳も忘れてはならない。どちらかに偏れば成果は得られない』とある。」
 現在のような時代には、厳しさをもって治めるべきだ。しかし、基盤が固まっていない状況では、厳しさを行うのは難しい

8.規律を守ることの大切さ

原文

 一、三御馬廻は十五組を二ツに分て三十日に一度ツヽ御広間江当番する也、然るに何の頃よりか頭役の者ハ夜具を持て行、亥の刻になると夜具を布而寝、其外当番人都而安寝する也、御殿江寝に行と云ハ第一不調法なる事也、惣而宿直は警衛の役成故寝食を安んす間敷事なるに、四ツを遅しと寝る事ニ而は何の御用に立ぬ事也、警衛ハ夜中こそ大事なるへし、夫ともに三番四番の近番を勤る人ハ気力も限り有は、是は寝すしてハ続かぬ事也、三十日に一度の事はいか様之太儀なる事にても成る也、況や食事に両度ツヽ帰りて休息をもするをや、就中頭役の者は御改の時を缺ぬ様に計して勝手に往返をする事也と云り、か様に頭役の者我侭になすも宜からす、
 孫子曰、軍竈未炊将不言乙飢寒甲夏不採扇冬不服裘雨不張蓋是謂之将礼、組子の精勤不精勤は頭役の者の導くに依れり、
 当夏中五拾騎一番組次番の時片桐藤右衛門か番将にて、物頭は山吉次郎左衛門ニ而有しに、戌の刻の太鼓を聞と取仕舞て寝たり、時に重定公ニ而其夜の四ツの太鼓を御聞付不被遊、翌朝になり昨夜の四ツの太鼓は打ぬと仰あるに、近臣の御答に打ぬと申事有まじ、御広間番ハ四ツの太鼓打ぬ内は仕廻ぬ者なれは是江問合可申とて、前夜の当番片桐藤右衛門か方江問合たり、時に藤右衛門熟眠して知らぬこと故挨拶に当惑し、他行と偽りて使を返、山吉次郎左衛門方へ行て相談して挨拶せしは、昨夜は夜中まて大暑にて当番人殊の外疲候而、私儀を始夢現とも分す罷在候故、四ツの太鼓ハ聞留不申と答しとそ、
 ケ様の事は不軽事ニ而直に見聞仕候事にもあらさるを、名を著して申は甚恐多候得共当世の人の横着に成し証拠を申さん為に記し畢、ケ様の事共ニ而間々時を欠く者も有と申ハ、余り上の御慈悲なるへし、近年ハ時の太鼓の虫ならし長く打なり、人の油断する基にて却而御仁徳の障りなるへし、

現代語訳

 一、三御馬廻(みうままわり)は十五組を二つに分けて、三十日に一度ずつ御広間で当番を務めるものである。しかし、いつの頃からか、頭役(かしらやく)の者たちは夜具を持ち込み、亥の刻(夜の10時頃)になると夜具を敷いて寝るようになり、他の当番人もみな安らかに眠るようになってしまった。御殿に寝に行くというのは、非常に不調法(不作法)なことである。もともと宿直(とのい)は警衛の役目であるため、寝食を安心して取ることなど許されないはずだ。四つ時(深夜10時頃)を過ぎたら寝るというのでは、何の役にも立たない。警衛にとって夜こそが重要であり、もしも三番目や四番目の近番を務める者たちの気力が限界に達してしまえば、寝ずに続けることは難しい。しかし、三十日に一度のことくらいは、どれほど大変でも耐えられるものである。ましてや、食事のために二度も家に戻り、休息まで取ることができるのだからなおさらだ。特に、頭役の者は、御改めの時を欠かさず、勝手に行ったり来たりしているということだ。このように、頭役が自分勝手に振る舞うのは、許されるべきではない。
 孫子(そんし)曰く、「軍のかまどが煮える前に、将は飢えや寒さについて言わない。夏は扇を持たず、冬は皮衣を着ず、雨が降っても傘を使わない。これが将の礼である」。組子の精勤や不精勤は、頭役の導きによるものだ。
 ある夏、五十騎の一番組が次の番を務める時、片桐藤右衛門が番将で、物頭(ものがしら)は山吉次郎左衛門であった。戌の刻(夜8時頃)に太鼓の音を聞き終えると、皆は仕事を終え、寝てしまった。その夜、重定公が四つ時の太鼓の音を聞かれなかった。翌朝、重定公は「昨夜の四つ時の太鼓が鳴らなかった」とおっしゃった。近臣が答えて、「四つ時の太鼓が鳴らなかったなどということはありません。御広間の当番は、四つ時の太鼓が鳴らない限り、仕事を終えない者ですので、確認いたします」と言い、前夜の当番であった片桐藤右衛門に問いただした。しかし、藤右衛門は熟睡しており、そのことを知らなかったため、返答に困り、他の場所に出向いていたと嘘をついて使者を返した。次に、山吉次郎左衛門に相談し、昨夜は夜中まで非常に暑く、当番人たちは非常に疲れており、夢か現実かわからない状態であったため、四つ時の太鼓を聞き逃してしまったと答えたという。
 このようなことは軽視すべきではない。直接見聞きしたことではないが、当世の人々の横着さを証明するために、恐れながらも記録に残した。こうした失態が時折起こるのは、上の者の慈悲が過ぎるためであろう。近年では、時の太鼓の「虫ならし」(音を鳴らす虫のようなもので、太鼓の音を長く鳴らすこと)も長くなり、人々が油断する原因となり、かえって君主の仁徳を損ねるものであろう。


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