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翹楚篇 チャットGPT現代語訳⑧


⑮御父重定公、金剛流の --鷹山公と養父 重定公との能・囃子を通した交流

原文

○御父重定公、金剛流の仕形御稽古まし〱て重き習事みな伝受し極たまひしほとなるより、諸御芸事の内能ほとすかせ玉ふハあらす、公ハ元より御稽古の浅きよりおのつからすかせ玉ふといふ場に至らせ玉はさりしかハ、始ハいつの御能御囃子にも御ミつからの御仕形なといふ事ハなかりしなり、或時思しめしつかせ玉ひし、斯まてすかせ玉ひしことなから、公の御きらひにてましますとならハ、御心のまゝになし、にくゝもあらせ給ふへし、
 南山南山館ハ重定公御隠殿の御号、詩経に如南山之寿不騫不崩とあるに、義を取て名つけられしなりの御寿不騫不崩とハいへとも、御余年の御楽只此能にしくハあらせ玉はす、公其御相手をなしまひらせ玉はゝ、殊に御心のまゝにて御楽もまさりたまはんとて、
 其後ハ能にも囃子にもいつも御みつから御仕形なされし、されハ御能の度こと、先御ミつから稽古し玉ひ、なを其上を重定公にみせまひらせられ、そこ〱 御直しうけ玉ひしも、亦深き御含のありしなるへし、
 

現代語訳

 御父・重定公は、金剛流の能の型を深く学ばれ、その技をすべて受け継ぎ、極められました。このため、他の芸事の中でも特に能については非常に精通されていました。しかし、治憲公は、元々稽古が浅かったため、自ら能を演じる場には至りませんでした。初めの頃は、どの能や囃子でも治憲公が自ら型を示すことはなかったのです。
 ある時、治憲公はこのことに思いを巡らされ、これまで自分が能を演じなかったのは、自分が能を嫌っているからではないかと考えられました。そこで、心のままに能を楽しむようにされ、抵抗なく演じられるようになりました。
 「南山館」というのは、重定公の隠居所の号であり、詩経の「南山の寿、不騫不崩(南山のごとく、倒れも崩れもしない長寿)」から名付けられたものです。重定公の長寿を象徴する言葉ですが、晩年の楽しみはただ能に勝るものはなかったのです。もし治憲公がその相手をしてくれるなら、重定公の楽しみもますます増えるだろうと考えられました。
 その後は、能や囃子の際には、いつも治憲公自身が型を示されるようになり、能のたびに自ら稽古をされ、その上で重定公に見せて手直しを受けることもありました。このことからも、治憲公の能に対する深い理解と含蓄があったことがうかがえます。

⑯公江戸に在せし時の事なり -治憲公と老能楽師 金剛三郎

原文

○ 公江戸に在せし時の事なり、金剛三郎か年寄て其芸の上達せるを御覧して思召つかせ玉ひし、父上隠居まし〱 てより今安永七年まて十二年なり、其十二年の間にハおのつから御芸も上達ましませハ、三郎か老て上達せる芸をも、見たまはまゝおほすへし、此節三郎を下して御慰に成しまひらせたらんハ、何の御楽か是に過させたまはん、門弟二三人もつれ下れとの御頼にて、御国もとの赤湯湯治の願にて下して御慰になしたまへり、

現代語訳

 これは治憲公が江戸におられた際の出来事です。金剛三郎という人物が高齢ながらもその芸が卓越しているのをご覧になり、治憲公はそのことを深く思われました。
 父・重定公が隠居されてから、すでに12年(安永7年まで)経過しており、その間に治憲公自身も芸事が自然に上達していました。そのため、治憲公は「三郎が年老いてもなお上達した芸を、養父重定公も同じように見るべきだ」と考えられました。もし今、三郎を呼び寄せて慰みとしたならば、これに勝る楽しみはないであろうとお考えになったのです。
 そこで、三郎に門弟二、三人を連れて来てもらうようお願いし、彼を国元の赤湯での湯治場へと送り、重定公の慰みとして下さったのです。

⑰離れ舞台ハ御本丸にありて -鷹山公が作らせた能舞台

原文

○離れ舞台ハ御本丸にありて足らせたまへとも、御留守年なと御取開の苦脳なるより、時々の御能も御心にまかせたまふましき事をおほしめし、天明二年御隠殿御構の内へ新に離舞台を建進られし、

現代語訳

 治憲公は、本丸にすでに離れ舞台があったものの、留守の年などはその管理や使用が困難であり、時折行われる能楽も思うように楽しむことができないと感じておられました。そこで、天明二年(1782年)、隠居所に新たに離れ舞台を建設されました。


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