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翹楚篇 チャットGPT現代語訳①


翹楚篇

   致仕臣太華源鵬謹撰
翹楚篇
   致仕臣・太華源鵬 謹んで撰す

①治憲公-鷹山公のお名前について

原文

治憲公
 始 ハ勝興と称奉り、諱の字を賜て治憲と称奉つる、御童名を御実家に在らせられし時ハ松三郎と称奉り、御家に入らせられて直松と称奉り又直丸と称玉ひ、御元服あつて弾正大弼と称奉、隠居し玉ひて越前守と改玉ひしなり、

 又文学の御風雅とて御学問所を稽古堂と称し、御居間を白鶴台と称し、又来章閣と称し、御号を鷹山と称し、御園を紫霞園と名付けられ、隠居まし〱 城南三御丸に住居し玉へハ御号を南亭と称し、又餐霞館と称せられし、
 御筆を染られしものに此等の御称号を記し玉へハ爰に書付置はへる、

現代語訳

治憲公
 初めは「勝興(かつおき)」と名乗られ、のちに諱(いみな)の字を賜り、「治憲(はるのり)」と名乗られました。幼少期、御実家におられた時は「松三郎」と称され、御家に入られてからは「直松」と称し、さらに「直丸」とも呼ばれました。元服の後は「弾正大弼(だんじょうのたいひつ)」の職名を賜り、隠居された後には「越前守(えちぜんのかみ)」に改名されました。
 また、文学や風雅を尊重され、御学問所を「稽古堂(けいこどう)」と称し、御居間を「白鶴台(はっかくだい)」と呼びました。さらに、御自宅を「来章閣(らいしょうかく)」、御号(ごう、雅号)を「鷹山(ようざん)」と称されました。庭園には「紫霞園(しかえん)」と名付けられました。隠居されてからは城南の三御丸(みみまる)にお住まいになり、その際の御号を「南亭(なんてい)」、または「餐霞館(さんかかん)」と称されました。
 御筆跡を染められたものには、これらの御称号が記されており、ここに書き残しております。

②公実ハ-鷹山公の出自について

原文

○ 公実ハ秋月長門守種美初の名佐渡守の第二男にてましませしを、大炊頭重定公隠居まし〱 てハ大殿様と称し奉りしなり、
 御嫡男を若殿と唱るに対すれハ、なへてハ当主を大殿と称るか常の事なから、御家にてハ当主を称し奉りて屋形様と申上奉るより、隠居ましませるを大殿と称し奉る事なり、されハ継て隠居ましまして隠君二人ましませハ治憲公を称し奉りて中殿とハ申上奉る事なり、篇中大殿と称し奉るあれハ爰にことわり置はへる、養て世子に立て賜ひしかハ、宝暦十年桜田御屋敷世子御殿へ引移まし〱 、明和四年重定公隠居まし〱 て、此君御年十七にて立て御家をつきたまひしなり、御在位十九年御歳三十五にして天明五年隠居し玉ひ、万寿無彊と三丸御殿に住せたまひしなり、

現代語訳

 公は実は、秋月長門守(あきづき ながとのかみ)種美の次男としてお生まれになりました。初めは「佐渡守」と名乗られましたが、大炊頭(おおいのかみ)重定公が隠居された後、重定公を「大殿様(おおとのさま)」とお呼びするようになりました。
 通常、当主の嫡男を「若殿」と呼び、当主を「大殿」と称することはあまりありません。しかし、御家では当主を「屋形様」と呼び申し上げていたため、隠居された後を「大殿」と称するようになったのです。こうして隠居が続き、隠居された君主が二人おられた時には、治憲公を「中殿(ちゅうでん)」と称することとなりました。本文中に「大殿」とある場合は、この事情に基づくものです。
 治憲公は、世子(せいし、後継者)として養子に立てられ、宝暦十年(1760年)に桜田御屋敷の世子御殿に移り住まれました。そして、明和四年(1767年)、重定公が隠居され、治憲公は御年17歳で家督を継がれました。治憲公は在位19年、35歳の時、天明五年(1785年)に隠居され、「万寿無彊(ばんじゅむきょう)」と名付けた三丸御殿に住まわれました。


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