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翹楚篇 チャットGPT現代語訳⑥


⑩於琴の御方 -鷹山公の側室於琴の御方について

原文

○於琴の御方
 式部勝延君の三女にてましませハ御部屋と称しまひらすへき御方ならねと、深窓にむなしくましますをもて年寄衆御進め申媒し奉り、御年十ちかひのめまさりにてましますを、正室の江戸にいませしをもて、御部屋と下しまひらせて御奥へハ入らせたまひし、
 御部屋と称して公の御奥に入輿したまふ、其御もふけとて御奥殿の経営あり、此年旱して作毛のいかゝあらんといひあへるほとなり、公聞しめし、百姓大旱を苦しミ諸山の寺院雩祭其法を尽といへともいまたしるしあらす、此日に当て何そ奥向の普請をかせんとのたまひて、いまた半ならさるに奥御殿の普請をやめたまひし、

現代語訳

於琴の御方について
 於琴(おこと)の御方は、式部勝延君の三女であり、本来であれば「御部屋様」として扱われるべきお方ではありませんでした。しかし、深窓(奥まった場所)にひっそりとおられる状況を不憫に思った年寄衆が、媒酌を進言しました。御方は治憲公より10歳ほど年上である上に、正室が江戸にいらっしゃったため、「御部屋様」として御奥(ごおく、公の私室)に入られることになりました。
 於琴の御方は「御部屋様」として、公の御奥に輿入れされ、その準備が進められていましたが、その年、ひどい干ばつが起こり、作物の成長が危ぶまれる状況となりました。このことを治憲公が耳にされ、「百姓たちは大干ばつに苦しんでおり、諸山の寺院では雩祭(あまごいの祭り)を行い、あらゆる手法を尽くしているが、いまだに効果は現れていない。このような日に奥向きの普請(工事)を進めるわけにはいかない」と仰せになり、工事がまだ半ばであったにもかかわらず、奥御殿の建設を中止されました。

⑪公初て入部ましませし年より -鷹山公の民情把握と農民との交流について

原文

○公初て入部ましませし年より、民の辛苦を知しめさんため、又ハ旱つゝき雨つゝきに田畠御覧のために、鉄砲もたせ鳥打御野遊の御唱にて度々野間に出て耕作の辛苦をみたまひ、或ハ民家にやすらひ何かれ御物語なとしたまひて通らせたまひしハ常のことなり、
 安永六年九月十九日のことなり、御城の北門へ老たる嫗来りて御台所へ通ると云、故を問へハ、約束しまひらせし刈あけ餅かりあけもちとハ農家にて稲を刈仕廻たる祝とて、九月十九日に戸ことに餅つきてくらうをいふ、を献すると云、
 去されハ御門〱 滞なく通り御台所へ出て福田餅かりあけもちをまろめたるもの名つけてふくて餅といふ、福田の略語にて祝たる名なり、一苞に大豆粉一包を添て出しぬ、故を問へハ、御門〱 にて答ししか〱 のことし、各あやしくおもひなから其よし言上に及けれハ、扨ハ殊勝のことなり、疾披露せよとの御意にて御取上あり、飯酒の御手当より金子なとたまはり、厚く謝して帰したまひしなり、
 其故を推尋るに、御野間の時夕つかたの事なり、老たる嫗かいそかしく稲取仕廻居たるを御覧し、御家中諸士のふりして、御みつから持運取仕廻手伝はせたまひて、此稲ハ何米なりと問せ給しに、糯米と答奉りしより、斯手伝たれハさそかりあけ餅をハくれるにこそと、戯れのたまひしことのありしを、公と知まひらせしなるへし、
 此外彼村の老嫗かみつから績て娘に織らせ娵におらせたるといひて布を献し、此所の老婆かミつから糸とりみつから織なせる木綿なんとして代官所へ出して献たるハ、其数挙て記にいとまあらす、老婆の誠とて毎度召料にも仰付られ、また老にあやからせ玉へとて御父重定公へ献し玉ひしもありしなり、

現代語訳

 治憲公が初めて藩に入部された年から、民の辛苦を知るため、また干ばつや長雨の際には田畑の状況を確認するため、「鉄砲を持たせて鳥撃ちに行く」という名目で度々野に出向き、農民の耕作の辛さを自らご覧になりました。時には農家に立ち寄って会話を交わされることもあり、こうした行動は常でありました。
 安永六年(1777年)九月十九日のことです。御城の北門に年老いた女性が現れ、「御台所(公の御殿)へ行きたい」と言いました。その理由を尋ねると、「刈り上げ餅(かりあげもち)を献上したい」とのことでした。刈り上げ餅とは、農家が稲刈りを終えたことを祝って九月十九日に餅をつく風習で、それを御台所へ献上するというのです。
 このため、老女は滞りなく御台所に通され、彼女が持参した「福田餅」(ふくでんもち)を献上しました。「福田餅」という名前は、福田(ふくだ)の略で、祝う意味を込めた名です。餅の包みに大豆粉の包みを添えて差し出しました。門でのやりとりを聞いた人々は不思議に思い、その事情を上申し、公の耳に達しました。治憲公はこの出来事を「非常に感心なことだ」と称賛され、即座に披露するようにと命じました。そして、酒席やご飯の準備に使われる金子(きんす)などを老女に与え、厚く謝辞を述べて送り出されました。
 この出来事の背景を詳しく調べると、以前、治憲公が野外に出られた時、夕暮れに年老いた女性が急いで稲を刈り終えるのをご覧になりました。その際、治憲公はご家中の諸士に扮して、稲刈りを手伝い、持ち運んで仕上げられました。その時、「この稲は何の米か?」と尋ねられ、女性が「糯米(もちごめ)」と答えると、治憲公は「稲刈りを手伝ったからには、きっと刈り上げ餅をくれるだろう」と戯れに仰せになったことがありました。どうやら、老女はその時の出来事を治憲公だと知っていたようです。
  また、彼女以外にも、その村の年老いた女性が自分で績んだ(糸を紡いだ)布を娘や嫁に織らせ、それを献上した例がありました。さらに、別の老女が、自ら糸を紡ぎ織った木綿を代官所に届けたという話もありましたが、その数は数え切れません。こうした老女たちの誠意が認められ、彼女たちには毎回褒美が授けられました。また、彼女たちの行為を称えて、御父である重定公にも献上されたことがありました。


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