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翹楚篇 チャットGPT現代語訳⑩


⑳予か書る此文に処々我名を -大華翁の諫言と鷹山公のその後の反応の素早さ

原文

○予か書る此文に処々我名を出せること、何とやらん、我を飾るに似て人の下墨もやと恐るれと知らさるハせんかたもなし、知るをもらさんも亦恐れて余りあれハ、爰にことわりはへる、
 公御隠居なされし後のことなり、御事も繁からねハ、なをさら常々御孝養の事にのみ御心を尽し玉ひしより、能囃子或御仕舞尽しなとにハ、いつも数番の御相手なされし、
 或時予を召れし時の御意に、扨近来ハ隙のなき事なり、
 近頃の御囃子かすめハ、又来る何日の御仕舞尽し自分か勤る番数の多きに、直丸殿か勤やる番数も亦多し、自分か勤るのと直丸殿か勤やるのと取合たる数十番を覚んとすれハ扨々隙のなきものなり、しかし是式なくさミかてらのつとめもて、孝行ともいはれねと、此御相手に慰め奉れハ、さしての不孝ともおほし上られましきか、
 是全く幼年の時教てくれし小兵衛か庇なりとおもへハ、今更別て忝おほゆるそとのたまはせたるハ、誠に有かたき御意なりし、されハ恐多くハ存奉りなから、此時予か御答に、彼か庇と思しつかせ玉ふこと、彼か身に取て本懐の至なり、
 斯迄おほしつかせ玉はゝ、なとて疾召て御謝詞ハのたまはせぬ賜ハ下したまはさる、賞不踰時とはへるも御幼年の時の御小姓黒金仕舞謡なと教奉りし、人命の定なきゆへなるへし、やかて謝せんとおほしめす間に、其事の空しきに至らハ、悔ませ給ふ共、返るへからすと申上たりしかハ諌にしたかハせ玉ふ事流るゝかことく、扨こそよふハ申たり、
 疾よんて謝すへしとの御意なりし、予其夜ハ降旗左司馬か処へ招かれたれハ、御殿より直にまかりぬ、相客も多くあり、其饗応半ならん頃、差かゝる御用あり、御殿遅く退しとのいひわけにて、山岸六助か来りて、予か側に座せり、一通りの会釈すみ、予か耳に口押あてゝ、黒金ハ本望の事也、彼を召せしゆへおそなはれりといふにそ、
 其時さこそともいはれねハ、何等の事そと知らぬ顔に問たりしに、六助か答へて、小兵衛を呼出せ羽織を出しをけとの御意下り、
 しか〱 の御話あり、早く謝すものと九郎兵衛か教へし故との御意なるに、知らぬ顔の面にくきと答へし、されハ予かたまさか御手水番御役、の心付申上たりしを、其ありのまゝに書記す事、聖慮に対し奉り憚る所あり、又小兵衛か聞たらんに亦いかゝ敷所あれと芻蕘の言をも疎にしたまはさる、御徳又彼か教しとのたまはせし御心の空しき御孝宣のたふときと、彼か庇とおほしつかせしの浅からぬ一事に、四の御美徳の篭れるを、己か徳をのミかへりみてもらし隠さんの恐あれハ、爰にことはりてありのまゝを記しぬ、

現代語訳

 私が書いたこの文には、あちらこちらに私の名前を出していることがあり、なんだか自分を飾っているようで、人々の批判を受けるのではないかと恐れていますが、それでも書かずにはいられません。知識を隠しているのではないかという恐れもありますので、ここでお断りしておきます。
 治憲公が隠居なさってからのことです。ご多忙ではないので、ますます普段からのご孝養のことにだけ心を注がれていました。そのため、能囃子や仕舞などでは、いつも何番もご相手をしておりました。
 ある時、私をお呼びになった際におっしゃられたことですが、最近はお暇がないということです。近頃、能囃子の稽古が続き、また次の仕舞も自分が勤める番が多く、直丸殿も多く勤められています。自分が勤める番と直丸殿が勤める番が合わせて数十番にもなり、時間が全くない状況でした。しかし、このような娯楽のついでの稽古をしているだけでは、孝行とは言えません。このようなご相手をして差し上げても、大した不孝ではないかとおっしゃられました。
 これも全く、幼い頃に小兵衛が教えてくれたことのおかげだと思うと、今さらながら感謝の念に堪えないとおっしゃられたのです。これは本当にありがたいご配慮でした。そこで恐れ多くも、私は次のようにお答えしました。「彼(小兵衛)の庇護をお感じになってくださることは、彼にとっても本懐でありましょう。」
 ここまでお考えいただけるのであれば、なぜ急いで謝辞を述べられないのでしょうか。「賞は時を過ぎないうちに与えるべきだ」と言われています。
 幼い頃、黒金仕舞や謡などを教えてくださった彼に対して、命がいつ終わるか分からないのですから、すぐに謝意を示さないままでいて、もしそのまま時が過ぎてしまったら、後悔しても戻すことはできませんと申し上げました。
 この言葉に対して、治憲公は私の諫言に従われ、すぐに彼を呼び出して謝意を伝えるようにと言われました。
 その夜、私は降旗左司馬の家に招かれていましたので、御殿から直接その場を去りました。招かれていた客も多く、歓待が最高潮に達した頃、急な用事がありました。御殿を遅く退席したという言い訳にして、山岸六助がやってきて、私の隣に座りました。一通りの挨拶が済んだ後、彼が私の耳元に口を近づけて言いました。「黒金の件は、彼(小兵衛)にとって本望のことです。彼を呼び出したことで、事が遅れたのです」とのことでした。
 その時、そうかとはっきりとは言えず、「どういうことだろうか」と知らないふりをして尋ねました。すると六助は答えました。「小兵衛を呼び出して、羽織を出しておけというご意向があったのです」と。
 それで一連の話があり、「早く謝罪すべきだ」と九郎兵衛が教えたことが原因であるとのご意向だったにもかかわらず、知らないふりをして答えました。私はたまたま手水番の役目に注意を向けて申し上げていました。そのことをありのままに書き記すことは、治憲公の御心に対して畏れ多いことですし、また小兵衛がそのことを聞いたらどれほど不快に思うか分かりません。
 しかし、君のご徳に対しても、彼(小兵衛)が教えたことが、君の孝行心を育んだという事実は、とても深い意味を持つものです。君が彼の庇護を感じ取ってくださったことは、浅いものではありません。その一つの出来事に四つの美徳が込められていることを感じました。自分の功績だけを振り返って、それを隠すことは恐れ多いことですので、ここにありのままを記し残します。

21.御先君御代々孝子御賞誉なされし -鷹山公による家臣への賞賛

原文

○御先君御代々孝子御賞誉なされし事は其数挙て算ふへからすといへとも、公の御在位纔十九年の間、孝子或奇特のもの賞誉したまへること凡八十五人、
 孝子不匱永腸爾類とか、公の孝子にてましませハ、其事に御世話の厚きより、其人も亦斯ハ多かりしにや、

現代語訳

 御先君(過去の歴代の君主)の代々において、孝行者を賞賛されたことは、その数を挙げれば数えきれないほど多いと言われています。しかし、治憲公が在位されたわずか19年間においても、孝行者や奇特な行いをした者を賞賛された人数は、おおよそ85人に達します。
「孝行者が絶えず現れることは永遠の美徳である」と言われている通り、治憲公ご自身が非常に孝行心の強い方であったため、孝行者を賞賛することに対して厚くお心を寄せられました。そのため、孝行者が多く現れることにも繋がったのでしょう。

22.何かれの御慎常々の事ハ -治憲公の常々の慎み深い行動

原文

○何かれの御慎常々の事ハ記にいとまあらす、其内一二事を挙ていはゝ、御裁許ありて死刑行るゝ日ハいふにや及へき、大抵軽き御裁許にても行るゝ其日ハ、御飯もひかへて常よりハ不足にきこしめし、御菜物の内も好味ならぬをゑりて、夫さへ少しつゝきこしめせしなり、
 天明四年四月ハ江戸御参府の年なるか、前年奥羽一統の凶作にて、御国の人民も既危かりしほとなりしか、公御寝食を安んし玉はす、其御手当の行届しほとに民命も全かりしなり、此御手当の事、下に出せハ爰に略せるなり、
 斯りしほとなるゆへ、御国民の危急を余所にして参府したまはん事忍ハせたまはす、参府御延引の思しめしありなから、是かためとの御願あらんも人かましとの御恭遜あり、又人にぬきんせし事ハなしたまふましき事とて、
 朝廷をあさむかせたまふ御恐ハ余りありといへとも、去年よりの御脚痛猶又発りて長途の御乗輿御むつかしきとの御唱にて、一先御参府御延引あり、扨御手当も行届民命全きに至りて、十月はしめに御国もと立せ玉ひて参府し玉ひしなり、
 斯御脚痛と称せられたれハ纔二丁にも足らぬ間なから、重定公の御隠殿へ朝夕し玉ふにも、いつも御乗輿なされしなり、

現代語訳

 治憲公の常々の慎み深い行動については、記録に挙げれば限りがありません。その中から一、二の事例を挙げると、死刑が執行される日にはもちろんのこと、軽い裁判が行われる日でも、治憲公は食事を控えめにされました。普段の食事よりも少なめにし、菜のものも美味しいものを避け、あえて味気ないものを少しずつ召し上がっていたのです。
 天明四年(1784年)四月は、江戸への参府(参勤交代)の年でしたが、前年に奥羽全域で凶作があり、治憲公の領国でも人々が危機に瀕していました。治憲公は寝食を安心して取ることができず、民の命を守るために手当てを行い、そのおかげで民の命は何とか保たれました。この手当ての詳細については、他の記録にあるためここでは省略します。
そのような状況であったため、治憲公は自国の民が危急にある時に江戸参府することを忍びないと感じていました。参府を延期したいと考えられましたが、それを理由にして延期の願いを出すと、人々に見下されるのではないかと謙遜されました。また、人に勝る行動を取ることを避けようとされました。
 とはいえ、朝廷に対して不敬になることを心配され、去年から続いていた足の痛みが再び発症し、長い道のりを乗輿(じょうよ、輿に乗ること)で行くのは難しいという理由で、一度参府を延期されました。その後、治憲公の手当てが行き届き、民の命が守られたため、十月初めに領国を出発し、江戸参府を果たされました。
 この時の脚の痛みを理由とされたにもかかわらず、僅か二丁(約200メートル)足らずの距離でさえ、重定公の隠居所へ朝夕訪れる際には、いつも乗輿を使われていたのです。


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