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翹楚篇 チャットGPT現代語訳⑲


41.御看病として発駕まし〱 けるハ -鷹山公、実父の看病に当たる

原文

○御看病として発駕まし〱 けるハ、天明七年八月十七日にて、
道中もいそかせ給ひ、同月廿四日申の半はかりに江戸桜田の御屋鋪につかせ玉へり、直にも長者丸長 門守様御隠居所秋月様御下屋鋪へ入らせらるへき思召なから、御家老江 戸御家老色部典膳へ逢せられ、御国元への御用仰含られ、且御供廻へ御賄下さるゝため御屋形へまつつかせられ、典膳へ御用仰含られ、御供廻に餉なさしめ給へり、
 されハ御祝の御膳進奉りしに、御菜のものへも御箸つけられす、御飯さへ漸く一椀をきこしめし遂させられ、御待請の御客様方へもそこ〱 に御会釈あり、疾御出殿ありしほとに、御駕篭脇衆、御先手衆を始纔二三人はかりつゝならてハ揃はす、御身近勤る御刀番衆さへ揃はぬに、直に御駕篭に召させられ、疾々いそけとの御意下りていそかせ玉ひけれハ、御駕篭のものも纔三四人にて舁奉り、御刀番衆も漸く虎門にて追つき奉り、外御供廻も追々走付まひらすれハ、半途ならん頃に漸く御行列ハ揃しとなん、斯る御いそきの内にも有かたき事あり、麻布桜田町抿子橋は しへおるゝ所、坂中にての事なり、此日大雨にて道あしく、御駕篭のものすべりころけて御駕篭を落せしかハ、御刀番衆、御駕篭脇衆なとあはてゝ御駕籠を取上、いまた公の御機嫌もうかゝひ奉らさる内、御駕篭よりのそかせ給ひ、駕篭のものハ怪我せぬやと問せ給ひし、
 されハ此日より親しく御みつから御看病成し進られ、夜ハ九時下りに御帰殿まし〱 、翌朝ハ辰の刻はかりに入らせられ、夜ハいつも九時下り、或八時過て御帰殿の事あり、又御泊かけ御看病の事も多くあり、御容子重らせられし九月廿一日より同月廿五日御逝去まてハ、夜白つゝけての御取扱なりし、八月廿四日着せ給ひ、九月廿五日御逝去まて凡三十有余日の間、御寝食を安んし玉はす、夜白御看病進られしとそ、
 但月々十三日ハ御家の重き御潔斎日につき、九月の十三日ハ御断にて入玉はす、翌十四日ハ御対客として松平周防守様へ入らせ給ひ、且明日御召の御奉書御到来につき入らせられす、翌十五日御城へ召れて有かたき台命を蒙らせられけれハ、此日朝の内御看病なく上意済、一寸御屋形へ入らせられ御飯きこしめし、御国元へ右御吹聴の御用なと仰含られ、
 御礼として御老中方へ廻らせられ、直々長者丸へ入らせられ、上意御吹聴、御拝領の御羽織御取分進られ、御看病成進られしとそ、

現代語訳

 天明七年八月十七日、御看病のため江戸を出発された時のことです。
 道中も急ぎ進まれ、同月二十四日の申の半ばごろに江戸の桜田にある御屋敷に到着されました。すぐに御父である長門守様の隠居所である秋月様の下屋敷に入られるおつもりでしたが、まず江戸の御家老である色部典膳に会われ、御国元への用件を仰せ含め、また供回りの者たちに賄いを下さるために、御屋敷へ一度戻られました。そこで典膳に御用を仰せ含め、供回りに食事を振る舞わせました。
 しかし、供された祝膳にはほとんど手をつけられず、御飯もやっと一椀を召し上がるほどでした。また、待ち受けていた客人たちにも軽く挨拶されただけで、すぐに御出立されました。お供の者たちも、纔かに二、三人ほどしか揃っておらず、御身近で勤める刀番衆さえ揃わないまま、直ちに御駕籠にお乗りになり、「急いで行け」というお言葉とともに出発されました。駕籠の担ぎ手もわずか三、四人で、刀番衆も虎門にてようやく追いつき、供回りも徐々に走り寄り、道中の半ばごろにはようやく御行列が整ったそうです。
このように急いでいる最中、桜田町の抿子橋という坂の途中で大雨のため道が悪く、駕籠の担ぎ手が滑って転び、駕籠を落としてしまいました。刀番衆や駕籠脇衆が慌てて駕籠を持ち上げ、まだ治憲公の機嫌を伺う間もなく、治憲公自ら駕籠からお降りになり、まず駕籠の担ぎ手に怪我がないかお尋ねになりました。
 その日から治憲公は親しく御自身で御看病をなされ、夜は九時ごろに御屋敷に戻り、翌朝には辰の刻(午前8時頃)には再び病床に向かわれました。夜もいつも九時ごろに帰られることが多く、八時過ぎに帰られることもありました。また、御泊り込みで御看病されることも多くありました。
長門守様の御容体が重くなられた九月二十一日から九月二十五日の御逝去の日までは、夜通し御看病を続けられました。治憲公が江戸に到着されたのが八月二十四日で、九月二十五日までの約三十日余りの間、御自身の寝食をも顧みず、昼夜問わず御看病にあたられたそうです。
 ただし、毎月十三日は御家にとって重要な潔斎の日であったため、九月十三日は御看病に入られませんでした。翌十四日は、松平周防守様を御相手にされる御対客の日であり、また翌日には御召の奉書が届くため、この日も御看病には行かれませんでした。さらに、十五日には御城に召され、有難い台命を賜りました。その朝は御看病をせずに、御上意が済まれた後、少し御屋敷に戻り、御飯を召し上がり、御国元への伝達を含む御用を仰せ含めました。
 その後、御老中方への御礼も済ませられ、直々に長者丸(長門守様の隠居所)へ赴かれ、御上意を御家中に伝え、御拝領された御羽織を進呈され、御看病を続けられたそうです。

42.長門守様御事 -鷹山公と実父の別れ

原文

○長門守様御事、御祈療験なく終に逝去し玉ひけれハ、其御いたミ悔ませ給ふ事中々筆のかき写すへきにあらす、されハ朝起給ふより夜いね給ふまて麻の御上下召させられ、御座の間に黙座まし〱 書籍筆硯をたに御手にふれ給はす、朝夕御膳供し玉ふと御拝礼なし玉ふと、又ハ御自由に立せ給ふとの外ハ始着座し給へる御畳の外へハ移り給はぬ程なれハ、まして御左右につかへ奉るものゝ御咄申上るも、龍光院様長 門守様御院号御 在世の時の御うへ、又ハ御病中の御事なと申上れハ、夫か相応の御いらひの下るまて余事に及へハ、御いらひもなかりしとそ、只御屋形にての御勤のミか法の事にて、御寺に詣まし〱 ても、御膳も御みつから供し給ひて、誠にいますかことくつかへ給ひしとそ、されハ喪の御勤のたくひなく聞えさせたまへハ、御看病中の御つかれより喪の御つゝしみの斯りしかハ、必煩はせ玉はんとの御いたはりにて、勤め給ふのたくひなきハ、けに御尤に御嬉しくハおほせとも、
 若も煩はせ給はゝ御国に在せる父上のなと御心の安かるへき、御上下ハ脱せ玉へ、世のならはしに精進あけといふ事あり、家の父かゆるしまひらする、是からハ魚もきこしめせ、御勤も少しき弛へ玉ひと、大殿様より御肴もたらせて贈進られたるハ、又有かたき御慈愛とそ聞えし、されハ斯る御慈愛の浅からぬに、何かハたまらせ給ふへき、むせひ泣せ給ふのミ、此日ハ十月廿一日の事にて、其御肴もて御膳も常より過してきこしめし、御酒も其日ハきこしめし、夜に入れハ御小姓頭御近習衆なとめされ、御前にて御酒給はり、初御忌日過同廿六日より御上下ハぬかせ玉ひけれと、余の御つとめ御つゝしみハ始め終りも在らせられ左りしとそ、

現代語訳

 長門守様のことについて。お祈りや治療の効果もなく、ついにお亡くなりになられたとき、その悲しみや悔しさは筆で表すことなど到底できないものでした。そのため、朝起きてから夜寝るまで、喪服の麻の上下をお召しになり、御座の間に黙って座られ、書物や筆、硯には全く手を触れられませんでした。朝夕の食事をお供えし、お拝礼をされ、また自由にお立ちになる以外には、初めに座られた畳の外には決して出られることがありませんでした。 ましてや、左右に仕えている者が話しかけることもできず、龍光院様や長門守様の院号が存命中のこと、また病中のことなどを申し上げた時にだけ、それに相応するお返事があったものの、それ以外の話にはお返事がありませんでした。ただ、御屋敷にて法要を執り行われ、寺院にもお参りになり、御膳もご自身でお供えされ、まるで亡き方にお仕えしているかのように振る舞われたとのことです。このように、喪に服している間も徹底して勤めを果たされていたため、御看病中の疲れと喪に服される間の厳しい自制によって、きっとご自身も病を患われるのではと心配するほどでした。しかしながら、その勤めの厳しさが立派であるとともに、その努力が過ぎることなく、少しずつでも和らげられたことに安堵されていたとのことです。
 もし、万が一、病に倒れられた場合でも、国におられる父上のように、心安らかに過ごすことができるようにとのご配慮もありました。そして、精進が明けた後には、喪服を脱ぎ、魚も食べてくださいとの言葉があり、僅かではありますが、勤めを和らげることを許されました。その際、大殿様から魚を贈られたことは、またとない慈愛の表れであったと言われています。このような深い慈愛に対して、何も感じずにはいられないはずもなく、ひたすらにむせび泣かれました。この出来事は十月二十一日のことで、その日、大殿様からの肴とともに、普段以上にお食事を召し上がり、お酒も飲まれました。その夜には、小姓頭や近習衆を呼ばれ、御前にてお酒を振る舞われました。そして、初七日を過ぎた同月の二十六日には、喪服を脱がれましたが、その後も引き続き、喪中の慎ましい生活を続けられたとのことです。

43.上天人の徳を世にあらはさまくおほせハ -鷹山公、養父の看病に当たる

原文

○上天人の徳を世にあらはさまくおほせハ、其人の身心を窮白せしめ勤しめて、其徳其行をあらはさ左しめ給ふ事、いにしへより然なり、されハ上天公の御徳を世にあらはさしめ給はんとにや、十一月十五日の事なり、きのふまて御実父の御喪に篭らせ給ひ、けふ御忌明といへる夜五時、御国元より早追の飛脚つきぬ、何事そと驚かせ給へハ、御父重定公、去る頃より仮初ならす煩はせ給ひ、十日の夜猶も重らせ給ひしと告来りぬ、
 何かハ猶予し給ふへき、翌十六日御暇の御願あり、翌十七日暁丑の刻、江戸を立せ給ひ、夜を日に継ていそかせ給ひしほとに、時しも降つむ雪路なから、同月廿四日子の刻コクはかり御城にハ着せ給ひしなり、
 されハ旅御装束のまゝ御病床を伺せ給ひ、即夜より御看病進らるへかりしか、御慈愛の浅からぬより其夜ハ御暇進られ、丑の時はかりに御隠殿へハ着せ玉ひぬ、されと只御看病に御心を尽させ玉ふより、此夜一寸入らせられ御対顔ありしまて、以後ハ御奥へも入らせ給はす、日々朝ハ五時夜ハ九時下りの御暇、或終夜の御看病あり、
 翌年二月十六日御床退御祝まて凡八十有余日の間、附添せ給ひての御看病、中々拙き筆の書尽すへきにあらす、此永き日数の内漸々二三度にハ過し、御供の揃はぬ間に御奥へ入らせられ、御茶たはこ召上りし事のありしはかりとそ、
 扨永き御病の事なれハ、御取扱申上奉る御近習衆も弥益つとむるといへと、長きつかれの積りたれハ、ねふり催もありけるに、終ねふり給へるを見上奉らさるハ、有かたくも亦おそろしくそ見上奉りしとそ、
 又或時の事なり、いまた御寝なり居らせ給ひしに、御下血ありて今朝ハ少しき御容子のあしきと告来りけれハ、御寝の内より供廻せとの御意あり、直に御はかまめし、御大小さゝせ給ひ、向寄近き御仲の間口より出させ給ひしに、また御小者の廻らて御はきものゝなかりけるか、ちらし草履と唱て御供のものゝために設置たる草履のありけるを御足につけられ、御道すから御袴の紐むすひなからに走りいそかせ給ひしとそ、
 されハ前年五月の末より翌年二月の半まて凡二百五六十日の間、少しの断間なくつとめ行ひ給へるの御誠、中々人間中の御所作にハあらすと驚嘆し奉りあへりぬ、

現代語訳

 御徳を世に示されるためには、その人が身心を尽くして勤め、徳や行いを示されるということが、昔からの道理です。ですから、上天公(あなた)がその御徳を世に現されるためだったのでしょうか。天明七年十一月十五日のことでした。昨日までは、実父の喪に篭っていらっしゃいましたが、その夜、忌明けを迎えたその時刻に、御国元から早馬の飛脚が到着しました。「何事か」と驚かれて尋ねられると、父である重定公が最近から重い病に伏せられ、十日の夜にさらに病が悪化したとの報告が届きました。
 これを聞いて、何を猶予されることがありましょうか。翌十六日には、急ぎ御暇を願い出られ、十七日の暁、丑の刻(午前2時頃)に江戸を出発されました。夜も昼も休まずに急いで旅を進め、ちょうど雪が降り積もる中、同月二十四日の子の刻(午前0時頃)には御城に到着されました。
 そのまま旅の装束のままで、病床にいらっしゃる父重定公を訪れられ、その夜からすぐに看病にあたられました。父への深い慈愛のゆえに、その晩は少しだけ御暇を取られ、丑の時刻に隠居所に到着されました。しかし、看病に専念されるため、その後は御奥(奥向きの居住部)にも入られることはなく、毎日朝は五時に入り、夜は九時に御暇を取られるか、または終夜にわたっての看病をされました。
 翌年二月十六日に御父が退院されるまでの約八十日間、ずっと看病に寄り添われ、その献身は、拙い筆で書き尽くすことなど到底できません。この長い日々の間で、わずかに二、三度ほど御供の者が揃わない間に奥に入られ、御茶やタバコを召し上がったことがあったといいます。
 長い病が続いたため、近習衆もますます勤めを尽くしましたが、その長さゆえに疲れが溜まり、眠気が襲ってきたこともありました。しかし、主君が決して眠られることがないのを拝見することは、恐ろしくもあり、また有り難くも感じたとのことです。
 また、ある日のことですが、まだ寝ておられたときに下血があり、その日の朝に少し体調がすぐれないとの報告がありました。すると、まだ寝所にいるうちから供廻りを命じられ、すぐに袴を着けられ、大小の刀を身につけ、急いで御仲の間口から外に出られました。その際、近くにいた小者が足元の準備を整えていなかったため、御供の者のために用意されていた「ちらし草履」と呼ばれる草履を履かれ、袴の紐を結ぶ途中で走り出されました。
 前年五月の末から翌年二月の半ばまで、約二百五、六十日の間、一度も途切れることなく看病に努められ、その誠実さは、人間の行いとは思えないほどのものでした。この姿に驚嘆し、感服せざるを得ませんでした

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