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翹楚篇 チャットGPT現代語訳⑫


25.天明三年三月の事なり -鷹山公の家臣に対するご配慮

原文

○ 天明三年三月の事なり、世子顕孝公の御室に松平土佐守豊雍の御娘釆姫君を御縁約あり、始て土州御招請の時、表御座敷御祝の御饗応も既に闌に及たれハ、追付御勝手御座敷に移らせ玉ふへし、
 御勝手御饗応の物数いかゝ滞もなきやと御膳番の蓼沼友四郎、御膳部の番将を呼て尋けるより、夫々御献立に向ひてしらへたれハ、御勝手御座付のはしめに供しまいらする御餅菓子御用意落に成たり、
 御台所役人の申出に御献立表をもて御菓子屋へ申付へきを、何としたる事にや、取まきれて申付されハ、御台所の不調法にとゝまると云、御膳部の申出に縦令御台所の間違あれハとて、御献立表ハ全御膳部の大事なれハ、疾に其しらへにも及へきを、斯まての間違に至らせしハ、畢竟の所ハ御膳部の不調法に止ると云、
 此時友四郎差図して、差懸り今と云、今不調法の申出ハ先〱 よすへし、早々多人数を出し、近町の菓子屋ともへ触渡し、餅菓子の品々取上よ、其内を撰はゝ其相応なるもあるへしと、爰におひて数人を出して呼しかハ、各ありあふ餅菓子持て数軒の菓子屋馳集る、
 しかれとも御念に御念入られて、其品珍しき菓子組なれハ安 永十年三月、御老中招請し玉ひし時の菓子組をもて御下知の菓子組なり、元より出合の菓子にあるへきにもあらす、止事なくして彼と是とを取合せたれハ、品こそあしけれ先ハ可なりにも御間のかけぬ事にハなりぬ、
 斯りしまゝに友四郎そつと公を御呼立参らせ、しか〱 の間違あり、差懸り止事なけれハ是々の品を組合せてと言上せしに、其菓子組書立をつら〱 見玉ひて、扨も〱 玄人とものする事ハ各別の物なり、前に差図せし菓子組にくらへてハ又雲泥懸隔によきなりと、ひたすらに誉たまひしほとに、夫々より不調法を訟たれとも、御呵にも及はす済し、

現代語訳

 天明三年三月、世子(次期藩主)である顕孝公が、松平土佐守豊雍(まつだいら とさのかみ とよやす)の娘である釆姫君(うねひめぎみ)との婚約を結びました。その最初の招待として、土佐家から迎えた折、表の御座敷で祝宴が盛大に行われましたが、宴も終わりに近づくと、次に御勝手御座敷(料理を提供する控えの部屋)に移動することになりました。
 その際、御勝手での饗応(きょうおう、もてなし)の準備に何か滞りがないか、御膳番である蓼沼友四郎が、御膳部(料理担当)の番将を呼んで確認させました。調べたところ、最初に供えるべき餅菓子の準備が手配漏れしていることが判明しました。
 御台所役人が、「献立表を持って菓子屋に指示するべきだったが、指示が漏れてしまい、御台所の不手際である」と申し出ました。これに対して、御膳部は「たとえ御台所にミスがあったとしても、献立表は御膳部の大事なものであり、先に確認するべきだった。ここまでの間違いに至ったのは御膳部の不手際である」と答えました。
 この時、友四郎はすぐに対策を指示し、「今さらミスを指摘しても仕方がない。早く多くの人数を出し、近くの菓子屋に声をかけ、餅菓子を集めなさい。その中から相応しいものを選べば、何とかなるはずだ」と命じました。そこで数人が菓子屋に向かい、各店からありあわせの餅菓子を集めました。
しかし、御念(治憲公)の厳しい目を考慮し、菓子の質も珍しいものが必要でした。本来であれば、安永十年三月に御老中を招いた際に用いた菓子組を参考にすべきところですが、出合いの品(急場しのぎで用意されたもの)で間に合わせるしかありませんでした。それでも、なんとか菓子を揃え、供え物に不備がないようにしたのです。
 友四郎はそっと治憲公を呼び、こういった事情を伝え、「やむを得ず、これこれの菓子を組み合わせました」と申し上げました。治憲公はその菓子組をじっくりとご覧になり、「さすがに玄人(職人)が作るものは別物だ。以前に指示した菓子組に比べても、これは雲泥の差で良い」と大いに褒められました。結果、御膳部や御台所の不手際が訴えられたにもかかわらず、治憲公は一切叱責せず、穏便にその場を済ませました。

26.天明六年九月八日 -鷹山公の家臣の失態に対しての機転を利かせた振る舞い

原文

○ 天明六年九月八日、将軍家治公御他界あつて、御院号を俊明院殿と称たてまつる、されハ公月の八日〱 にハ終日精進の御膳まひらすへきよし、其砌仰出し置れしに、或八日朝御膳に魚の御料理して進奉りし、
 御大倹中御奥にてきこしめす御膳ゆへ、御膳番の量なく女中の給仕なりしより、何の心なく進参らせたりしに、凡の事久しくふりにし事ハ間違ふこともなきものなるに、近きころの事にハ間違ふ事のある事、誰々ものかれぬ常なり、けふハ俊明院様の御忌日なれハ精進に致させよ、扨今朝ハ何としたる事にや、いまた食気なし、殊に仕懸りの書事あるを、半に筆置て入たれハ、書事終へてくはんこそ仕合なり、遅きハ苦しからす、迚もゆる〱 とせさせよとの御意にて、御表へ出させ玉ひしなり、
 去れハけふの御膳部役ハ白井源蔵といへるものなり、斯る大なる誤ゆへ、只々恐入のミ、かほとの不調法これある 身の御膳の包丁恐入なり、疾同役へ相譲、扨支配頭へ訴御裁許を待へしと当番の御膳番へ断たり、御膳番差図して、御膳遅引せん事ハ恐多し、差扣の申出ハ御膳後の沙汰なり、先〱 急て御膳図をなすへしとて、精進御料理に取かゝりぬ、
 斯りしまゝに多人数取懸り漸く御膳も調けれハ、公御膳に向はせられ御快くきこしめし、玄人のする業ハ各別なるものなり、今の間に仕出したるハ玄人ならねハ叶はぬ事なり、殊塩梅のよきにハ驚入との御賞誉度々にて、常ハ御飯も二膳にかきりてきこしめせしか、今朝ハ三椀きこしめせしなり、
 されハ源蔵ハ支配頭へ訟ふへきに、極て差懸る事ゆへ差扣の事断けるより、御膳番しか〱のこと言上しけれハ、則御膳に向はせ玉ひし時のことくの御賞誉なりしかハ、御膳番感涙して白井の訟をとめし、

原文

 天明六年(1786年)九月八日、将軍家治公が御他界され、その院号を俊明院殿と名付けました。それに伴い、治憲公は毎月八日には精進料理を召し上がるよう命じておられました。ところが、ある月の八日、朝の御膳に魚料理を出してしまったのです。治憲公が倹約を実施されている間は、奥の方で召し上がる食事も質素であり、御膳番の指示がなかったため、女中が何も考えずに魚料理を進めてしまいました。
 治憲公は、「長年続いている慣習であれば、間違えることはないが、最近のことになると間違いが起こるのは人間の常だ。今日は俊明院様の忌日(きじつ)であるから、精進料理にすべきだ。それにしても、今朝はまだ食欲がなく、さらに書きかけの書状があるので、それを終えてから食べることにしよう。遅くなっても構わないから、ゆっくり進めてくれ」と仰せになり、御膳を出させることになりました。
 その日の御膳部の役目を担っていたのは白井源蔵という者でした。この大きな失敗に、彼はただただ恐れ入り、自分の不調法を感じました。源蔵は同役にその役目を譲り、支配頭(上司)に訴え、裁許(指示)を待つべきだと考えましたが、御膳番(料理担当)の指示で「御膳の遅れは恐れ多い。失敗の報告は後で良い。まずは精進料理を急いで用意しなさい」と命じられ、精進料理を急ぎ作り始めました。
 多くの人手が加わり、ようやく御膳が整ったため、治憲公にお出しすると、治憲公は快く召し上がり、「職人(玄人)の仕事はやはり特別なものだ。急いで準備したものでは、職人の技にかなうものはない。それにしても、塩加減がとても良く、驚かされた」と何度も褒められました。普段は二膳しか召し上がらないご飯を、この日は三膳も召し上がられたのです。
 白井源蔵は、支配頭に報告すべきと考えましたが、問題が解決されたことを知った御膳番が「治憲公の御膳に対する賞賛もあり、すべてが上手くいった」と感じ、感涙しました。その結果、白井の訴えを止めたのです。


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