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翹楚篇 チャットGPT現代語訳⑦


⑫御年若にましましなから -治憲公の老人への敬愛と交流

原文

○御年若にましましなから、老人を寵せられしハ、齢を尊ひ玉ふの浅からす、ふりにし事なと尋問ひ玉はんためなるへし、いつも御在国の時ハ近習外様の差別なく、とし寄て其人からも相応なる、又は何そに勝れたるなと聞ゆる老人をハ、御夜咄としてめさせられ、口にかなへる御夜食の御もふけより、菓子酒なとの御もてなしありて話させ玉ひし、

現代語訳

 治憲公は若い年齢であられたにもかかわらず、老人を非常に大切にされました。これは、年齢を尊重されるお気持ちが深いことに加え、昔のことを尋ねるためでもあったようです。ご在国(領国に滞在されている時)は、近習(側近)や外様(外部の者)の区別なく、年配者を見分け、その人にふさわしい対応をされました。特に何かに優れていると聞いた老人を夜咄(よばなし、夜の会話相手)として招き、お好みにかなう夜食や菓子、酒などでおもてなしをして、話をさせたことは日常的でした。

⑬安永六年十二月廿三日のことなり -鷹山公の詠まれた和歌

原文

○安永六年十二月廿三日のことなり、
 関口東領か衾、歳暮の和歌を御覧し感ましまして、綿子といふものにしてきよとて綿二把をたはせたまひし、其二首、
  夜を寒み、ねられぬまゝに引かつき、
  しはしふすまの夢 たにもみす

  おしむへき月日なからも老かみハ、
  年の寒さて春そいそかる

現代語訳

〇安永六年(1777年)十二月二十三日のこと
 この日、関口東領(せきぐち とうりょう)が「衾」(ふすま)という歳暮の和歌を献上し、その和歌をご覧になって感銘を受けた治憲公は、綿子(めんし、綿の詰まったもの)を送り、「綿二把(わたにわ)を贈れ」と命じられました。二首の和歌は次の通りです。

夜を寒み
寝られぬままに 引きかつぎ
しばし襖の 夢さえ見えず
(夜が寒く、眠れぬままに夜を明かし、しばらく襖越しに夢も見ずに過ごす。)

惜しむべき
月日も無くて 老いし身は
年の寒さに 春ぞ急かるる
(惜しむべき月日は絶えず過ぎ去っていくが、年老いた身には、歳の寒さが身にしみ、春の訪れが待ち遠しい。)

⑭九十以上の老人御手当の事 -鷹山公の老人に対する孝行の振る舞い

原文

○ 九十以上の老人御手当の事、
 安永六年の事なり、諸士ハ御城に召され、百姓町人ハ代官所へめされ、その処に御成あつて逢せられしなり、御城へ召されし分ハ御仲之間口まて駕篭めされ、御座の間へめして逢はせられ、公と御父重定公ハ御二の間に列座まし〱 、老人ともハ御四の間まてめされ、御小姓頭御取合あり、御懇の御意下り、猶御三の間へ下らせ玉ひ、何かれ御親しき御尋問あり、公より時服たまはり、重定公より金子たまはり、其御席にて御料理玉はり、此時ものそませたまひ、御労りの御意御懇なり、
 御前といへとも其取扱の常にかはらぬ様にとの御労りにて、子々共の内附添はせへきよし、御料理拝服の給仕も子々共にさすへしとの御事にて、或子、或孫、或娘、或娵、おの〱 二三人つゝ附副せて、常のことく給仕し事へしめ玉へり、斯りしかは、此席に侍りて親しく見し人ハいふにや及へき、聞ける人々にも老をハ安んすへけれ、父母にハ能事ゆへけれと、既往を悔ミ未来を勤る心発らぬハあらす、
 されハ、公さへ悔ませたまひし、彼子々ともか給仕し事ゆるありさまのしほらしく誠なる実も老を養ん、子々共ハ斯こそあらめ、実も父母につかへん事彼等かことくあるへけれ、けふかの子々ともか事ゆるありさまをみすハ、大名ハ斯るものとあんして、終不孝にハ過すへき、只恨らくハ御殿へたゝりて朝夕馴そへつかえまひらせぬ事の残念、せめてハ斯招請しまいらせし時はかりもみつから給仕しつかえまひらすへしと、幾度厚く辞し給ふを、強て願はせたまひて、けふをはしめに御ミつから給仕し御膳ハすゝめたまひしなり、
 されハ其後百姓町人を代官所へめされてもてなし玉へるも、大抵ハ前に同し、只時服賜しを米にかへられしまてなり、斯りしかハ年々めして逢せらるへき事なるに、寒き時老人をはる〱 めして逢せらるゝハ御心なきことなりとおほしめし、以後ハ就てたまはるへしとて、其後ハ諸士にハ其頭をもて玉はり、百姓にハ村長のものをして其家々について玉ひし事にハなりぬ、
 初ハ冬召出されたりしか、あした夕をはかりかたき老なれハ、若も其年死して賜にもるゝものあらんかとの浅からぬ御沙汰にて、春はやく賜はることにハなりし也、

現代語訳

九十歳以上の老人への手当
 安永六年のこと、諸士(武士)は城に召され、百姓や町人は代官所に呼ばれ、治憲公がその場で会われました。城に召された老人たちは籠に乗せられ、御座の間へ招かれました。治憲公と御父、重定公(しげさだこう)は御二の間に座り、老人たちは御四の間に迎えられ、小姓頭(こしょうがしら)が応対しました。その後、さらに御三の間に降り、親しく質問をされ、治憲公からは時服(季節に合った衣服)が、重定公からは金子(きんす)が贈られました。席で料理も振る舞われ、懇ろなもてなしがありました。
 治憲公は、御前であっても特別な扱いをせず、普段通りの振る舞いを心がけるよう配慮されました。その一環として、子供や孫、娘、嫁たちに付き添わせ、食事の給仕も彼らにさせるようにと命じられました。各家庭から二、三人ずつ子供や孫が付き添い、普段通りに給仕をさせました。この場に直接居合わせた者はもちろん、話を聞いた人々も、年を取ることの安心感と、親孝行の大切さを感じさせられました。
 過去の行いを悔い、将来に向けて努力する心が生まれたのです。治憲公でさえ、子供たちが親孝行を尽くす姿を目の当たりにして感動されました。「子供たちもこうあるべきだ、親に仕えることもまたこのようであるべきだ」と感心されました。
 その日、給仕する子供たちの姿を見て、大名とはこのような存在であるべきだと感じられ、不孝を避けるよう心を入れ替えられました。ただし、治憲公として唯一心残りだったのは、毎朝夕と常に身近で仕えさせられなかったことです。せめてこのような招待の際には、直接給仕させることができたのが幸いでした。幾度も辞退されたにもかかわらず、強く願われ、ついにこの日、初めて自らの手で給仕し、食事を進められました。
 その後も、百姓や町人たちを代官所に召し出し、もてなすことがありました。その際、前回と同様の待遇が行われましたが、時服(季節に合わせた衣服)ではなく、米を代わりに賜わることがありました。こうして年々、召されることが続きましたが、寒い時期に老人を招き入れることは、心苦しいとお考えになり、その後は春先に賜ることとされました。 
 当初、冬に召し出されたのは、老齢の者が朝晩の予定に合わせるのが難しく、その年に亡くなってしまう可能性もあるという心配から、早めに賜ることにされていました。しかし、より配慮のあるご沙汰により、春早くに賜ることが決まったのです。


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