なぜ日本の新聞写真は心に響かないのか
台風19号の報道で、ニューヨークタイムズ(NYT)の写真特集が話題になりました。「被害の甚大さや被害にあった人々の様子が伝わってくる」と。
同時に「なぜ日本の新聞にはこんな写真が掲載されないのか」という疑問が投げかけられました。
海外メディアのフォトグラファーは日本のそれより、写真がうまい。
単純にそう思った人もいたと思います。
しかし、よく見るとこの特集のクレジットの半分以上は「kyodo」「jiji」。国内通信社、日本のカメラマンが撮影したものです。
(日本勤務の外国人フォトグラファーの写真もあります。避難所で真上から撮影された赤ちゃんが笑う写真はチョイスも画角も外国っぽい。日本メディアじゃこなん状況で笑顔はまず使いませんね)
つまり、疑問は日本メディアにおける写真の見せ方が良くないということを鮮明にしました。実際、私も特に日本の新聞メディアにとって最も足りない部分のひとつだと思っています。
NYTやニューズウィーク、TIMEなど、海外の主要新聞、雑誌の写真と比べると、日本のそれらの写真の使い方はあまりにも違います。写真が現実を訴える迫力を持った報道写真にあこがれてフォトグラファーという仕事を選んだ私も、同じような疑問を新人のころから持っていました。
そして13年間、日本の新聞で働き、「なぜ日本の新聞写真が心に響かないのか」その理由がはっきりと分かるようになりました。
最も大きい弊害は、度を超した説明・証拠主義
毎日発行される新聞の重要な役割の一つは「その1日に起こった伝えるべき出来事を知ってもらう」ことです。だから、記事はもちろん写真にもわかりやすさと記録性が求められます。それは当然です。世界中どこも同じです。
ただ、問題は、記録としての証拠性と記事との整合性を細かく求めすぎ、写真が持つ芸術性が軽んじられることです。
例えば今回の台風。
多くの地域で大雨の被害が出ました。中でも深刻な被害が千曲川が決壊した地域一帯の大規模浸水でした。なので写真にも「広範囲に浸水し」「堤防が決壊し」「千曲川が氾濫した」の3要素が入ることが重要視されます。記事を読めば、必ず説明してあることなのに…。
となると、1面のメーン写真はおのずと千曲川決壊地周辺の空撮に決まります。実際にそうなりました。
極端に言えば、他の場所で見る人の目をひきるける印象的な写真を撮っても、「千曲川が決壊し浸水した地域じゃないから」という理由でその写真が紙面に選ばれない可能性は大きいのです。同じ台風の被害を受けていても。
「せっかく文字が説明してくれているニュースを、写真という証拠でさらにわかりやすく説明する」そんな役割を日本の新聞メディアは写真に、強く、強く求めます。
でも、NYTの特集を見てください。写真の詳細な状況どころか、場所の説明すらないものもあります。撮影された場所が、記事が話題にしている場所かどうかすらわからない。でも、被害の深刻さ、そこに暮らす人の不安な様子、大災害の中でも淡々と生きようとする人間の姿がこの災害がどういうものであったか、雄弁に語ってくれています。
「とにかく画力があればいいんだよ」
「これさえ見れば記事の言いたいことも伝わるだろ」と言わんばかりです。
そう。詳細は記事を読んでもらえば良いのです。
僕は個人的には、写真の画力と共にしっかりとその状況を説明する言葉がよりその写真の価値を引きあげると思っています。
けれど、ニュースを説明する証拠として採用された写真より、画力重視で採用された写真の訴える力がなんと強いことか!まざまざと見せつけられます。
日本の新聞では、写真は時に「添え物」と呼ばれます。
主役は「文字」、写真は二の次という考えが透けて見えますね笑。
写真はあくまでも記事を補完する役割。
時には、「紙面をなんとなく新聞ぽい体裁にするために」というニュアンスの役割が求められることもあります。ニュース価値のある記事(良い記事)には、写真とグラフ、一覧表つけると、なんか他の記事より格好つきますね…と。なので写真は記事に合わせて選ばれます。
度重なる災害に疲れ果て、泥だらの自宅のなかで立ち尽くしている人の写真が撮れたとしましょう。でも、記事が「災害ゴミがあまりに多すぎて処理に困っているニュース」だったら、その写真がどんなに印象的で、その災害を象徴する1枚でも、使われない可能性が大いにあります。
使われるのは、道路に山積みにされたゴミの写真です。
写真に求める役割の違いが、選ぶ写真の違いに直結しています。
どちらが良いのか?その答えは既に読者の反応に出ていて言うまでもありません。
ただ、新聞が読まれなくなっている時代。オールドメディアと呼ばれようが指をくわえて待っているだけではありません。特にネット上でどう記事を見られるか常に試行錯誤がされています。なので、この10年でましにはなってきました。説明的な写真だけでなく画力を大事にすることも増えてきました。でも、根本的な違いを生み出す変化にはまだ至っていません。
もう一つ写真をうまく見せられない構造的な原因があると私は思っています。それが写真の大きさです。
海外の新聞と日本の新聞を見比べたとき、実は1番わかりやすい違いは1枚、1枚の写真の大きさです。↑をみてください。まず写真を見ろと言わんばかりのこの基本的な1面の作りを。
基本的に、写真は大きいとそれだけで良く見えます。試してください。大きなPCの画面で↑で初回下NYTの特集を見るのと、スマホで見るのとでは迫力が全然違います。
でも「大きくないから見栄えが悪い」そんな簡単なことだけを言いたいわけではりません。もっと根本的な「制限」が発生するのです。
日本の新聞に使われる写真は、一つ一つが小さい。
だから必然的にニュース価値がある部分だけをぐっとトリミングして掲載されます。別の言い方をすれば、ニュース価値のない余白は切り取られます。なので、ニュースの現場やその人が画面いっぱいの写真ばかりが掲載されます。
余白って確かに「余り」でニュース価値はないかもしれませんが、印象的にみせるために時に必要なんです。
例をあげます。
↓宮城県大郷町の吉田川が決壊した場所の写真です。
日が暮れても復旧作業が続いていました。
かすかに残る夕焼けや浸水している様子が分かるので広い構図でも撮りました。
でも、もしこれが紙面に掲載されるなら…
最低でも!!(時にはもっとショベルの周りだけに)トリミングされるのは火を見るより明らかです。
なぜならニュース要素は「堤防の仮復旧」。だから記事と同じように写真にもそれを伝えることが一番大事で、他は必要ないんです。
大きい写真だから広い構図のほんの一部にニュース要素があっても生きるのであって、小さい扱いでトリミングなしの広い構図の写真を使われても「何が写ってるの??」ってなるだけですね。
つまり、写真を大きく扱えないことで、構図や写真のチョイスに制限が出てきてしまうのです。「画一的な」「なんか見たことある」「印象的でない」表現になってしまうのです。
「より多様な情報を限られた紙面に詰め込む」という昔からの編集の基本が原因です。
そして、現場の捕り手の技量にも深く深く関わっていると感じています。経験を積めば積むほど、「新聞らしい」「編集者が求める写真」の撮り方が身につき、撮る時点で切り詰めた(余白のない)構図しか撮らなくなり、しまいには「新聞写真」は撮れるようになっても、いちフォトグラファーとして独創性や意外性は失われ、別の構図で撮ることができなくなってしまうのです。
「もっと自由に独創的に」そう強く思っていても、身に染みついた習慣で少し違った画角や構図の写真が撮れない自分に心底がっかりすることも少なくありません。
さらに言えば、日本の新聞写真には明文化されていない暗黙のルールがあります。人が写っているなら、必ず「お顔」が写ってないといけないんです。背中じゃダメなんです。影じゃだめなんです。とにかくお顔!!
昨日と今日、ネクタイと来ている服以外ほぼおなじだと思われる政治家もお顔、お顔!!
もちろん、人の表情が多くを訴えるのは間違いありません。
写真において、とてもとても大事です。
ある素晴らしい取り組みをした人の記事を読んだらどんなご尊顔か気になるのが人ですね。でも、だからってそれだけにしばられるのも??です。
海外の新聞には、シルエットだけの大統領の後ろ姿の写真だって普通に載りますし。
読者の時には思いもよらなかった、いまでも納得できない目に見えないルールが多いんです。苦笑…
インスタを見ればわかるように、写真ってもっと自由で面白い表現なのに。
もちろん、新聞写真は報道写真で、ニュースだから取材するのであって、インスタのように絵になるから撮影するわけではありません。
ニュースが絵映えすることなんてむしろ少なく、特に日本は表現や喜怒哀楽が乏しい国民性もあいまって、「日本で良い写真が撮れるフォトグラファーは、世界のどこに行っても一流になれる」=「日本は喜怒哀楽が表れた報道写真を撮るのがとても難しい国」という先輩もいるほどです。同感です。
被写体の熱量やカメラの前でも素を出せるという要素は、写真の印象を大きく左右しますから。
「画力ウンヌン」とここまで偉そうにさんざん言ってきましたが、確かに良い絵が撮れない時だってあります。
まとめ
想いがあふれすぎて、長くなりすぎてしまいました笑。
このまとめまでたどり着いた方は、もうほとんどいないでしょう。
読んでもらえた方の中でもほんのごく一部だと思います。
しかも、「フォトグラファーは写真を良い撮っているのに、それをつかわないデスクや編集担当者が悪い!!」としか聞こえない笑。
半分正しくて、半分間違ってます。
責任はお互いにありるのです。
良い編集者(&デスク)が良いフォトグラファーを育て、腕の良いフォトグラファーが良い編集者(&デスク)を育てる関係だと思っています。
どちらか一方だけ良くなるということはあり得ないです。
編集者が変わらないと、現場のフォトグラファーの撮る写真も変わりませんし、撮り手の写真が変わらないと編集者も変わりません。
つまり、日本の新聞業界のビジュアル改革は、現場の撮り手と編集者(&デスク)を一体で行わないと意味がないのです。そして編集者には、「どの写真を選びどのように見せるか」真の意味での写真のプロがほぼいません。ほとんどがペン記者出身だからです。
この10年、どんどん新聞が読まれなくなり、そのおかげで業界内でもネットを意識した「ヴィジュアル改革」が叫ばれ続けてきました。
動画やスライドショーなど新しい試みもずっと続けています。
実際にウェブでの見せ方はあまり知られていませんが、紙以上に変わって、魅力的になってきました。
でも形にはこだわっているのに、根本的な「伝えるべき写真」の価値観はほとんど変わっていないように感じるます。
そろそろ、この部分にも手をつけるべきだと思っています。
意外と簡単です。
ニュースを単にわかりやすく伝えることよりも画力を重視して写真を選び、より大きく写真を使う工夫をすれば良いのです。