「声の大きな人」のやり方はいずれ終焉を向かえる
奈良の十津川村で、LEAF(森林環境教育プログラム)のインストラクター研修のお手伝いをしてきた。
"教える" から "気付きと共有" へ、"自主性" から "主体性" へのシフトを要求するこのプログラムは、日本で広まるにはまだまだ時間がかかる(たぶん世代交代が必要)と思うけれど、時間がかかるからこそ早く始めよう、というのは森づくりと同じ。
所々で近自然森づくりの考え方に共通する要素があって、どちらも持続/生き延びることを追求しているのだから、それは当然かと思ったり。ちなみに、LEAFの骨格となっているアクティブ・ラーニング(能動的学習)を日本に紹介した羽根拓也氏は、十津川村出身だそうだ。
思い返せば、自分が中学生くらいの頃…30数年前は、既に「詰め込み教育の弊害」のようなことが盛んに言われ始めていたような気がする。
アクティブ・ラーニングはその解決策のひとつなのだろうけれど、いつもこの国は新しい考え方が取り入れられると、やがて手段が目的化して何をしたかったのか分からなくなる、を繰り返してきた。
今度はどうか。
どこにでも声の大きな人というのはいるが、それは自分の意見を言っているのではなく、皆が同調しそうなことを先回りして言って、自分のポジションを確保しようとしているだけだ、という解釈を先日別のところで聞いて、なるほどと思った。
そうやって異なる意見を排除していくのが、かつてはコミュニティを維持する知恵の一つだったのかもしれないが、あまりにも世の中の前提が変わってしまった。それは価値観が変わって「これだ」という正解を決めづらくなってしまったから。
新しい教育(主体性を育てる教育)を受けた世代が中心になる世の中というのは、異論を言うことができる、すなわち "声の大きな人" のやり方が通用しなくなるということでもある。
自分のような古い教育(先生と生徒という上下関係を基本とした教育)を受けた世代にとって、これは相当の脅威だ。
この流れに必死に逆らうのか、それとも順応しようとチャレンジしていくのか。まだ先の長い団塊ジュニア世代は、これから難しい選択を迫られることになるのだろうと思う。
林業経営でも、林業教育でも、地域との関わりでも避けられないお話。まずは自分の足元から手を付けていかないとなあ。