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近自然という体質改善

近自然(豊かさか環境か、ではなく、豊かさも環境貢献も)は、体質改善を要求します。それは例えば、

・一攫千金を諦める(正しくは、それに依存しない)
・一時の大きな利益よりも少しの利益を継続するほうがトータルでは得
・ストックを増やすことではなく、利子の最大化を目標にする
・そもそも、豊かさとは何かを見つめ直す

といった考え方のシフトのことを指すのですが、その実現には、責任者に権限を与えて自由にやらせる(※ 放任ではない)ことが必要不可欠。しかし、私達のいる社会はどうもこれが苦手です。

体質改善のようなそもそも論は、これまでやってきたことの否定と解釈されることがあるので、ムラ社会 = 話し合い至上主義(みんなの意見を聞いて決めたことは正しいという世界)では浮いてしまう、ということが往々にしてあります。

豊かに生き延びることが近自然の目的であるはずなのに、この矛盾をどう考えるかというのは、実は結論が出ていません。

正しいと信じていることでも、実務では相手に伝わらなければ意味がありません。であれば、いつか訪れるそのチャンスを逃さないように種まき(準備)をしておくことに尽きるのかな、と、これまでの自身の数多くの失敗経験から思います。

ではその種まきはどのようにしていけばよいのか。

手入れ箇所の優先順位は、「どこをやるべきか」であり、「どこがやり易いか」ではない。

ロルフ・シュトリッカー

要注意なのは、彼は「できるところから手を付ける」ことを否定しているのではありません。

自分でコントロールできる範囲を超えたことで悩んでもしかたがない(その場合はできる人に働きかけをする)ですが、その前に、本当は自分でできるのに面倒くさいので「できない」ことにしていることがありませんか、という問いかけでもあります。

これは勤勉が善であるという意味ではなく、要はマンパワーのかけどころの問題になってきます(そこを面倒くさがらずに考えましょうという意)。

どうしても私達は「他人にできないこと」に高い付加価値を見出そうとしがちです。それはそれで間違いではないのですが、そこに一発逆転の魔法の薬を期待しているのであれば、ちょっと危険。

「誰にでもできるのに(面倒だから)誰もやらないこと」が身の回りに残っていないか、それが利益を継続するための一番の近道かもしれない、という古来から言われている商売のセオリーを、今いちど見つめ直したいものです。

近自然森づくりは、観察や考えることは「面倒くさい」ですが、
面倒くさいが「面白さ」に変わるときが、チャンス

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