近づいているはずなのに、遠くなる
峠や高台に出たときに見える山の頂がある。
あの上に立つとどのような景色が見えるのだろうか。あそこに登ってみたいと思う。しかし、まだ遠すぎるのでまずは近づかなければならない。
峠を降りて、麓に着く。
ところが、そこに待ち受けるのはそびえ立つ斜面。これを登らないといけないのか…。それどころか、さっきは見えていた頂すら今は見えなくなっていることに呆然とする。
近づいているはずなのに、遠のいている。
遠くばかりを見ていて足元を見ていなかったときに起こりうることだけれど、それでもなお目の前の道に足を踏み出すのは、この先に頂があることを遠目で見たときに知っているからだ。
山の頂を到達目標(ゴール)という。頂きに立ったときに得られる幸せを理想像、あるいはポーラスター(北極星)という。ポーラスターに行き着くことは、たぶん物理的には不可能だ。
だけれど、少しでもそれに近づくことを願い、人は山に登ろうとする。
仏門では、まずはお釈迦様の言葉を信じることから始まる。それは、自分の幸せは何かという設定をまず各自で行う(イメージする)という意味。
次に、信じる道を実現しようと思い続けること。思わなければ行動しないし、思い続けなければ行動しても続かない。そして、思いの実現のために努力を続けなければならない。
臨済宗では、信じる方向に向かって行う努力を「修行」、方向が明確ではない闇雲な努力を「苦行」と定義する。修行と苦行は違う。
そして、人生は、この「信じる」「思う」「努力する」の繰り返しと説く。
近自然森づくりで対立思考から両立思考へのシフトを呼びかけるのは、これらの考え方に近似するものがある。経済と環境は対立とすると考えるのではなく、両立する方法があるはずだと考える。
できるかできないかではない。少しでもそこに近づく方法があるのではないかと思い、行動を続ける。対立思考でうまくいっていないのだから、そこからのシフトは自分には現実的かつ合理的な選択に思える。
最初、峠から山の頂を見通したときにはそう思った。しかし、近づいてみるとなんとその道の険しいことか。
近づいているはずなのに、なぜ遠のいているように感じるのか? この問は決して終わることのない「修行」の道なのだろう。