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林業と音楽の共通点

※2011/8/4 excite blog の記事を一部改訂して転載

先日、教育テレビで『DEEP PEOPLE~スーパー指揮者 小林研一郎・広上淳一・下野竜也』という音楽番組をやっていた。

クラシック音楽の対談番組だが、同じ曲を3人の指揮者がそれぞれ演奏して聴き比べるというコーナーがあって、これが面白かった。同じ楽譜・同じオーケストラなのに本当に演奏が変わる。その背景にある「人間」を垣間見させる構成には、番組の作り手のこだわりを感じさせた。

で、改めて思ったのは、林業とオーケストラって本当によく似ているよなあ、ということだ。

KKL Luzern にて/筆者撮影

オーケストラの演奏会は、通常は指揮者と楽団員から構成される。音を実際に出すのは楽団員だ。指揮者は音を出すことはないが、速さや表現方法などを楽団員に指示し、演奏全体をコントロールする。楽譜にも様々な指示は書いてあるが、同じ曲でも出来上がる音楽は指揮者の数だけ存在する。

一方で、指揮者がいくら優秀でも、そのリクエストを表現する楽団員の技術と芸術性が高くなければ良い演奏にはならない。したがって、指揮者と楽団員のスキルに優先順位はなくて、どちらも同時に高めていかなければならない。

指揮者は音を出さないが、楽器の経験は必ず持っている。ピアノやバイオリンであることが多いが、佐渡裕のフルート、岩城宏之の打楽器のように多岐にわたる。しかし、一つの楽器を楽団員のように上手く演奏できる必要はない。それよりも、オーケストラで使われる全ての楽器の構造や特徴を広く理解していなければならない。

フォレスターと森林作業員の関係が、これによく似ている。指揮者であるフォレスターは国や州の森林計画という「楽譜」を彼らなりに解釈・アレンジして現場の森林管理と林業経営を指揮する。

だが、フォレスター自身が音を出す(木を伐ったり重機を運転したりする)ことは少ない。フォレスターのプランニングを実際に現場で表現するのは森林作業員である。だから、いくらフォレスターが優秀でも、森林作業員がフォレスターの考えていることを正しく理解し、それを実現するための高い技術とがないと全体のクオリティは上がらないことになる。フォレスターと森林作業員は森づくりという演奏会において一蓮托生なのである。

フォレスター制度の無い国でも、例えば一定規模以上の林業会社では、経営者と従業員などで同様の関係が築かれていることがあるだろう。

オーケストラに目を戻すと、指揮者と楽団員の関係は、指揮者が権威を持っていて命令的に指示できる場合から、両者が対等で和気合い合いとやっているオーケストラまで様々。林業でのフォレスター制度も同様で、ドイツが前者、スイスは後者の典型かもしれない。でも、どちらが正解というわけではなく、両者とも良い演奏をするから面白い。

フォレスターになると実際に森林作業をすることはなくなるが、例えばスイスの場合は森林作業員の国家資格と実務経験がなければフォレスター学校には入れない(音大の指揮科受験もピアノは必須)。しかし、フォレスター学校に入学した時点から、その作業スキルを深めることは要求されない。フォレスター学校では林業に関わる全ての項目を広く学び、森の指揮者としての要素を高めていくことになる。

また、いくら指揮者と楽団員が頑張っても、楽譜が悪ければ限界がある。さらに演奏会ではステージマネージャーなどの裏方さんの協力があって初めて良い演奏会が成立する。林業も行政制度から研究開発、現場に至るまで一体となって名演奏を目指す、それが本来は理想と思う。

ところで、音楽はオーケストラだけではない。少人数の室内楽、ソロ演奏、更にジャズ、ポップスetc..と広げていけば、その形態は無限だ。林業だっていろいろなカタチがある。プランニングから実際の伐採搬出までやってしまう自伐林家は、いわば作詞作曲から演奏まで1人でこなすシンガーソングライターか。

音楽も林業も次の世代にどの形態が生き残っているかは分からないが、それぞれの立場でそれぞれの信じた道を歩むしかないのではと思う。もし、ジャンル同士で足を引っ張り合うようなことがあれば、業界自体が社会から見放されるのは時間の問題だろう。

一つの方法に世の中が収束していくのは(またはそう働きかけることは)どうも気もち良くない=危ない、というのも近自然の原則である。

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