【不快】が正しいこともある
津波からの避難を訴えるTVアナウンサーの話し方が感情的で不快だ、という主旨の意見を目にしました。このことについて近自然の考え方から考察してみたいと思います。
そもそも私たちはなぜ不快を感じるのでしょうか。人には五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)がありますが、この五感(+心)の全部または一部をもって快・不快を感じ取っています。すなわち、快とは美しい、良い音、良い香り、美味しい、肌触りがよいということ。
不快とは汚い、うるさい、臭い、不味い、肌触りが悪いということ。こうして見ていくと、五感は危険が身に迫っていることを察知するためのセンサーだということが分かります。この不快をもたらす要素を近自然では「ノイズ」といいます。この場合のノイズとは音だけとは限りません。
すなわち、ノイズを減らして身の回りを快な(気持ち良い)環境に整えれば、生き延びられる可能性が高まり、逆にノイズだらけの不快な(気持ち悪い)環境は生き延びにとって問題だ、と解釈します。ここまでは多くの方には感覚的にも理解できることかと思います。
さて、ここで問いたいのは、果たしてノイズをきれいに除去すればそれでよいのか?ということです。例えば森は気持ち良いという価値観があったとします。しかし実際には蚊もハエもいますし、棘のある植物や触ればかぶれるもの、食べたらお腹が痛くなるキノコもあるでしょう。
そこで、不快なものを全て除去してしまったらどうなるでしょう。森という生態系はとても複雑なバランスで成り立っています。強い介入を行えばバランスが崩れ、例えば蚊やハエを餌にしていた鳥がいなくなってしまうかもしれませんし、その鳥があなたにとって気持ちの良いものだったら…。
もちろんノイズが多すぎることも問題です。都会の駅のホームではひっきりなしに安全のためのアナウンスが流れますが、情報量が多すぎると人は麻痺してノイズを感じなくなります。利用者にとって本当に肝心な情報があっても気がつかないという状況に陥ってしまいかねないわけです。
子供の頃、なぜ親に机の上や鞄の中を片づけなさいと躾けられたのか。新入社員の時、なぜ現場用具や工場の整理整頓を煩く言われるのか。なぜフォレスターの基本は観察なのか。全ては「変化に気がつくため」ということに通じます。
普段はノイズの少ない環境に身をおいて、重大なノイズに気がつく状態にしておくことが生き延びるためのセオリーだということになります。今回の報道アナウンスが不快だと感じた方は、そのセンサーが正しく機能していると解釈することもできます。
不快だと感じるから、これは身に危険が迫っているのだと察知できるわけです。アナウンサーの方は東日本大震災の際の検証を踏まえ、”意図的”にあのような話し方をしたのだろうとも言われていますが、そうだとすれば目的と手段が合致していることになります。
(おそらく不快を訴える方のなかには、自分の居住地域のことではないのにたまらんという意見の人もおられるかと思いますが、これはまた別の議論)
快・不快という感覚はとても重要で、どちらかに極端に走るとその危険センサーが鈍ってしまう恐れがあるというおはなしでした。不快であることを発言することは自由ですが、目的と手段を俯瞰して評価することが大事なのかなと思います。
まとめます。
危険が迫っているときにノイズを感知できないのはまずい
だから整理整頓を
快/不快を感じるのは危険センサーが機能している証拠
何事もほどほどに→原理主義からは距離を置きましょう
能登半島地震で被害に遭われた皆様には心よりお見舞い申し上げます。しばらく余談を許さない状況が続きますが、ともかく周囲は自分たちの言動が足を引っ張りかねないかどうかを十分に考慮したいものです。
※補足
こちらで発信している「近自然森づくり」では、スイスの山脇正俊さんが提唱した近自然(人はどうすれば豊かに生き延びられるか)の考え方を林業に応用して理論付け、体系化することにチャレンジしています。このような背景から、森づくりメインのアカウントながら今回の問題の考察を行ってみました。
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