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下刈りに除草剤?からの考察

※ 2019/1/30 excite blog からの転載(一部改訂)

木を植え、数年間下刈りをし、数回の間伐を経て数十年で皆伐、そしてまた木を植える…

日本の林業は、一般論としてこのようなサイクルを繰り返し、山を守っていくもの、とされている。この一連の作業の中で、最も過酷なのが下刈り(草刈り)だ。

地域にもよると思うが、昭和の終わりくらいまでは鎌を使った下刈りがまだ残っていた。今ではエンジン式の刈払機が普及し、下刈りのほとんどは動力利用。それでも、夏の日陰のない炎天下の中、苗木を刈らないように細心の注意を払い、山の斜面を上下しながら下刈りをすると、体重の変化は1日で3〜4kgにもなる。

自分も若い頃に測量の仕事で刈払機を使った作業を山でずいぶんやったものだが、だから、ある森林組合で春に作業員を10人雇用したら最初の夏で9人が辞めた、という話を聞いた時、そんなに驚きはなかった。

夏の炎天下での作業は過酷だ

このところ国の施策もあって、"成熟"した国産資源を活用しようと各地で皆伐が進行しているが、跡地の再造林を誰が担うかが大きな課題となっている。特に下刈りの人手不足は、これから更に深刻になるだろう。

そんな中、このような記事を目にした。

重労働の下刈り省力化=林業に無人ヘリ-宮崎県
 宮崎県は、林業の担い手不足が課題となる中、苗木周辺の雑草を刈る「下刈り」を省力化しようと技術開発を進めている。全地球測位システム(GPS)を搭載した無人ヘリが上空から除草剤を散布する仕組み。2020年度の実用化を目指しており、県によると実現すれば全国初。
 スギ丸太の生産量が日本一の宮崎県。木材需要の高まりを受け、木の伐採量が増えており、伐採した分は再び植えている。その後に行うのが下刈り。6年間続ける必要があり、猛暑でも重い機材を持ち、山間部の急傾斜地で作業しなければならない。ハチやヘビの被害に遭う危険性もあり、重労働となっている。
 そこで県が着目したのが、農業分野で導入が進んでいる無人ヘリ。誤差6~12センチという正確な位置情報を持つ準天頂衛星を活用する。宮崎大学や林業関係の研究機関、ヤマハ発動機などと連携して研究を進めている。
 県内で林業に携わる人材は1995年に4200人いたが、現在は2200人。2035年には1700人まで落ち込むとの試算もある。1人当たりの労務負担も膨らむことから、下刈りの省力化が不可欠と判断した。

2019/1/25 時事通信ニュース

無人ヘリで上空から除草剤を散布する仕組みを産官学で開発し、課題解決につなげようというプロジェクトだ。これがあくまで実験的な取り組みであることは理解しているし、数十年に一度の除草剤散布が問題なら、農地はどうなるんだという意見があることも承知はしている。

しかし、この記事を読んだ時、何とも言えない無力感のようなものに襲われた。それはなぜか。

2008年に引き継いだ宮崎の社有林では、網の目のように張り巡らされた作業道の除草が追いつかず、毎年多量の除草剤を使用していた、もちろん合法の範囲内ではあったが、その時の違和感を当時はうまく説明できないでいた。

作業道は不可欠だが、日々のメンテナンスを必要とする

2010年にスイスの近自然森づくりの考え方(自然に逆らうほどコストは高くなる)と出会った時、その疑問が氷解した。山で除草剤を撒いてまで道の管理をしなければならない、というのは、つまりは道の作り過ぎ、または道の構造(路線選定と水処理)の問題だということ。経済的に何か合わないことをやっているから無理が出る。無理は続かない(いつか破綻する)、そういう違和感だったと。

手間暇をかければそれだけ良いことがある、という常識(?)から一旦離れて、もっと自然に近づけば、省ける手間があるはずだ。2011年には除草剤の散布をやめ、その後既存作業道の管理方法を工夫し、現在では維持管理コストを従来の1/4にまで減らした。

機械化は一見自然から遠ざかるようだけれど、適切な投入で総合的に有利になる

森づくりでは、2014年に原則として皆伐を廃止し、将来木施業や若い林分での広葉樹の手入れなど、一部で新しいチャレンジも始めた。小さい面積での収穫(郡伐)や風倒木・病虫害などはこれからも発生するだろうから、植栽と下刈りはゼロにはならないと思う。しかし、2014年に植えた林分の下刈りは今年度で完了したので、今後大面積の下刈り作業はかなり減るだろう。

もちろん皆伐を止めて一度に伐る量を減らしたことによる目先の経営上のダメージは大きい。しかし、今投げ売りしてしまうくらいならば、そのダメージを何とか他の資金でカバーしつつ、既存の仕組みに変わる何かを始めておきたい。

近自然森づくりといっても、その考え方がどこまで日本で応用できるのか誰にもわからない。全部が近自然森づくりになるということもありえない。集約的林業が合う土地もあるだろうし、何代も続くような伝統的林業地にはまた想いを馳せるべき歴史がある。そして「多様性は大事です。あなたもそう思うでしょ?」は自己否定に他ならないからだ。

だから、やってはいけないのは全てを一気に変えてしまうことで、ごく一部から少しずつ変え始め、様子を見ながら何十年もかけて適用できる範囲で広げていかなければならない。しかし、50年かかることを1年先延ばしにしたら、結果が51年先になるだけのこと。誰かがいつか始めてみなければ、結論はいつまでも出ない。

そのようなことを10年近く続けてきて、今また除草剤の文字を見るとは…。対症療法開発の必要性は理解できるが、一方で、大面積の下刈の必要ない林業(つまり非皆伐化)ができないのか、というそもそも論をなぜ同時並行でできないのか。思想家の山本七平は、そのような日本人気質について次のように分析している。

一見開国をしている様に見えても、一方向に自己を規定してしまって他を見なければ、それは精神的な鎖国といわなければならない。では鎖国とは何なのか。それは前提を動かさない、という事なのである。そしてその前提の下に術を練り、優劣を競う。

これが日本の競争であり、従ってある意味では不自由競争の社会といえる。例えば徳川時代には「飛び道具は卑怯」という規範があった。そしてこれによって銃器なしという前提をつくり、その中で剣の優劣を競う。その優劣を競うという点では自由競争だが、厳密な意味では自由競争ではない。

この伝統は日本軍に受けつがれ、日本軍は、日露戦争時とほぼ変わらぬ前提を絶対動かさずに、この中で技を競い合い、それに熟達することが無敵に通ずると本気で信じていた。そして、前提が変われば、その術は一挙に無力になるとは考えなかったのである。

山本七平「存亡の条件」(1979)

冒頭に挙げた一般的な林業のサイクルというのは、労働賃金は今の1/10以下、しかも心持ちの柱材がこれからも大量に消費されるはずとされた時代にできたシステムだ。世の中の前提がとっくに変わっているのに、それに対応しようとしない現象は林業だけではない。いい大学を出て官僚になったり大企業に就職したりするのがまず中心にある、という価値観で作られた教育システムもそうだろう。

日本の歴史を振り返ると「絶対化された前提」は自浄作用ではなく外圧に破壊されて新しい時代が訪れる、ということが多い。このままではいけないと分かっていたのに、あの時なぜそれを言わなかったのかと当事者に問えば、おそらく「あの時は、そうせざるをえなかった」と返ってくるだろう。この「せざるをえなかった」と言わせる状況を、山本氏は「空気」と表現した。空気と空気の境界は「ムラ」だ。

この「空気」は英語では「animism」と訳せるだろう。つまり世界中にこの概念は存在するが、日本のそれは現代においてもしばしば合理性や科学技術を凌駕して社会を支配し、しかもそのことを多くの人が自覚をしていない。

さて、私達はひたすら黒船を待つのか、いや、そうではない何かを自分たちなりに探るのか。この空気に水を差すのは/差さなければならないのは誰なのか。

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