「かわいそう」の奥にあるもの
このエントリーは、森林・林業に普段関わりのない方々に届けたいオピニオンです。
「山の神」というものをご存知でしょうか。ここでは箱根駅伝のそれではありません。山仕事(林業、猟師、炭焼き)における山の神とは、オオヤマツミ(大山津見神)、つまり仕事の場である山を守護する神のことを指します。
そして、山の現場の人々が「山の神」という場合、お供物をして仕事の無事を祈る神事のことも意味します。一般的には年中行事として行われ、その時期や回数は地域によって異なります。
大事なのはどのように行われるのかということよりも、それだけ常に命の危険に晒される仕事であることに加えて、山の様々な命をいただいて生業としている自覚の表れとしてこれらの風習が現代においても色濃く残っていることだと私は考えます。
故に、伐採(木を伐ること)は悪いことだ、すなわち命を軽んじているのではないかという反応に接する度に、山で働く私達はとても悲しい気持ちになり、そして傷つきます。業界の普及啓蒙の努力が足りないと言われればそれまでですが、傷つくという事実は事実としてお伝えしておかなくてはなりません。
伐採は1本の樹木の命を奪う行為であることは間違いありません。しかし一旦立ち止まって見てほしいのは、なぜその木を伐るのかということ。そうすると(環境や社会にとって)貢献になる伐採と負荷になる伐採があることが分かってきます。
貢献にはプレミアムがあるのか、負荷にはペナルティが課せられているのか。市民(納税者)の役割はその適用の監視であって、木を伐るという行為をただ糾弾することではないはずです。
木を伐ることに限らず、環境保護・保全に関する社会の反応には、どうもおかしいなと感じることがたくさんあります。例えば、公園の樹や街路樹を伐ることに対して、それは自然破壊だとする意見。
私はこう反問します。それらの樹々は多くの場合、自らの子孫を自らの力で残すという機会を与えられることはありません。そのような環境を「自然」と呼ぶことには違和感があるのですが、と。
すべての生き物はいつか死にますし、だから新しい生があるとも言えます。その世代交代を自然に任せるのか人間が責任をもって行うかの違いはありますが、どうも昨今の「かわいそう」には「自分の手さえ汚れなければいい」というある種のエゴイズムを感じてしまうことがあります。
「かわいそう」の奥に本当の命のやりとりを見ているのか、そのことを改めて問いたいのです。
<関連記事>