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自分で難しくしていない?短答式はシンプルに解く

こんにちは、山藤あるとです。

私は受験生活が長かったですが、特に短答式試験に合格できずに苦しみました。

振り返ってみて、短答式の結果が良くなっていったのはあの時の気付きから変わったのかもと思うターニングポイントのような出来事がありました。

今回はその話をしたいと思います。

・短答式試験でなかなか成績が伸びず悩んでいる人
・短答式試験の得点がなかなか安定しない人
など、多くの受験生に最後まで読んでもらえたらうれしいです。



正解を通り過ぎていた自分に気づく

きっかけは何気ない指摘

受験仲間と短答式答練の復習をしていた時のことです。

お互いにどこをどのように間違えていたのか確認して解説し合うといったことをしていました。

その中の一つの私が間違えた問題に対して、一緒に勉強していた受験仲間が「これはかなり基本的な知識の問題だからこれを間違うようではダメではないか」と指摘されました。

ただ、私もその基本的な知識についてはもちろん知っていましたし、最初は正解の選択肢を解答しようと考えていましたが、他の選択肢を確認しているうちに他の選択肢の方がより正解に近い気がして答えをそっちに変えて誤答してしまっていたところでした。

正解に必要な知識は持っているのに正解できていない。

このことに改めて気づかされたわけです。むしろ、正解を通り過ぎて誤答してしまっている状況でした。

そのつもりで他の科目も復習していくと、正解を解答しようとして結局別の選択肢を選んでいる、というケースが結構あることに気づきました。特に理論科目で多かったです。

なぜ通り過ぎていたのか

このような状況が頻発するのはなぜなのか。

単純に、最初に選んだ選択肢をむやみに変えるのは控えることにしようとも思いましたが、それでは根本的な解決になりません。

なにより、最初に選んだ選択肢が正しくない可能性もあり、再現性がある対処法ではありません。

最初に選んだ選択肢に確信が持てなかったのはなぜなのか、他の選択肢が正解に思えてしまったのはなぜなのか、正解するのに必要な知識・理解が足りないのか、短答式という形式に慣れていないからか、などいろいろ考えました。

すると、私も受験仲間も、正解しているときは判断基準がシンプルで、不正解の時は深く考えすぎている時が多いようだというのが見えてきました。

そこで一つの仮説として、短答式にフィットした判断基準で思考できていないのではないか、と考えました。

ズレていた判断基準

その視点でこれまでの解答を確認していくと、シンプルに判断して正解している時は、基準や条文と同じ(異なる)から正しい(誤り)と判断している時、でした。

ものすごく当たり前のことを言っていると思いますが、この当たり前が出来ていないことが多かったということです。

もう少し言うと、結果正解を通り過ぎて間違っている時の多くは、自分の理解と照らし合わせて判断していた時が多かったです。

これは理解が曖昧だったものももちろんありますが、自分の言葉では説明できるレベルで理解していたところでも、「自分の理解を基準等のようなカッコいい表現にするとこのような表現になるか」というところで確信が持てていなかったために間違えていることに気づきました。

言い換えると、誤っている時は、「自分の理解と選択肢の表現が同じ意味か」という判断をしている時が多かったです。

正解を通り過ぎていた原因はこれでした。判断基準がズレていたのです。

つまり、自分の理解と一番近い表現の選択肢を選んでいるので一旦は正解の選択肢に辿り着くのですが、日本語の表現として、こういうケースを考えると必ずしもそうとは言い切れないとか、自分の理解でここまでの意味(選択肢の表現が示す範囲)が含まれるかどうか、といったところで深く考えすぎてしまい、結果確信が持てずふらついた時に誤答してしまっていたわけです。

もう少し言うと、選択肢の正誤を判断する際に、知識や理解と照らし合わせて判断しているのではなく、それに加えて日本語の表現というそもそも解釈の幅のあるものを挟んで判断していたため、導き出す結果(正答か誤答か)も安定感のないものとなっていると気づきました。

短答式の性質も考慮して対応

原因に気づくと、短答式試験の性質からも、知識等に基づいたシンプルな判断が似合うことに気づきました。

短答式試験は正答がはっきりと絞られるように作らないといけないため、基準等の表現を加工して作られる選択肢がよく出てきます。

例えば、正しくは「Aとは、〇〇〇であり、Bとは、×××である」という場合に、選択肢を「Aとは、×××であり、Bとは、〇〇〇である」というように説明を入れ替える等、正しい表現の一部をいじって誤った選択肢としてあることがよくあります。

ということは、基準等の記載内容と違う点があれば、その選択肢はかなりの確率で誤りと判断できる、ということです。

自分の理解と同じ意味か、ではなく、基準等の記載内容通りか、で判断すべきということです。

そうなってくると、そもそも日本語の表現の意味を考えようとしている時点ですでにズレていることになります。(曖昧なところが正誤判断の決定的な要素にならないように作問していると考えられるためです。)

まずはこれに気づけるようになっただけでも、ドツボにはまって考えすぎることが激減しました。

改善のために取り組んだこと

まずは見える化した

私の場合、まず意識したのはズレた判断基準で答えようとしている自分に気付けるようになることでした。

そのために、答練等を解く際に解答を変更した設問に目印を付けておき、復習時に変更前が正答だったかどうかを確認するようにしました。

知識の曖昧さから解答を変えたものではなく、主観的な理由で変えた(深読みした、に近いかもしれません)ものがどれくらいあるかを確認しました。

その結果、日本語の表現で迷った場合は変える前が正解だったことが多いことが分かりました。

この時点で、少なくとも解き方は変わりました。
迷い始めた時点で一旦ストップできるようになります。

その上で、今まで迷っていた理由とは違う理由で解答を絞り込もうとしたり、一旦設問から離れることで深みにはまる前にリセットしようとしたりする等、はまったままズルズルと考え続けることが減りました。

短答式向け勉強で意識したこと

インプット時に意識したのは、自分が短答式の問題を作るならどういう風に誤答の選択肢を作るか、ということでした。

客観的に誤りと判断できるように作ろうとすると、基準や条文などを作り変える方法がシンプルで王道だろうと思えました。
(こういう話も専門学校では話してくれていたのですが、実感をもって理解できたのはこの時でした)

主観的な受け取り方の違いが正誤に繋がるような問題は作れないことを実感すると、理解だけで解答しようとすることは主観のみで解答しようとしているのではと考えるようになりました。

もっというと、理解での解答に知識という客観的視点の裏付けが弱い状態だったので迷っていたのだと思います。

この記事で書いた「理論科目の型」のところで、自分の理解をこういう表現で書けばいいとあらかじめ用意する、というのが型だと書きましたが、その意識が短答式では薄かったと気が付きました。

自分の理解を、基準等ではこう表現している、という知識を明確に持てるように、答練の復習後は間違えたところの基準等の原文を再確認するようにしました。

レントゲンの話

医者はレントゲンから異常を発見できるようになるために、正常な人のレントゲンを繰り返し見る、という話を聞いたことがあります。

正しいものをはっきりとインプットすることで、それとは違うという違和感に気付けるようになるから、と受け止めています。

以前の私は、正常な人のレントゲンはこういう写り方をするはずだという頭の中のイメージと見比べていたようなものです。

頭の中のイメージでは、正誤判断の客観的な根拠とするには解像度が低すぎます。

あくまで正常な人のレントゲン(=基準等)と見比べて判断をする必要があるわけです。

理論科目の型を身につけることが、正常な人のレントゲンを頭の中に焼き付けることと同じ意味なのだと思います。

型は論文でも短答でも基本同じ

自分の理解は基準等にはこう書いてある、というのが明確になれば、論文ではそれを書けばよいし、短答ではそれをもとに正誤判断すればよいことになります。

しっかりと型を身につけていれば、それでも解答できないなら知識不足だが周りも知らないだろうとか、あるいは知識では判定が難しい微妙な選択肢ならその選択肢で解答が分かれるようには設問しないだろう等の判断もできるようになります。

結果、戦術的な気持ちの切り替えや見切りの早さによる時間配分の向上にも繋がります。

こう考えると、短答式でも論文式でも、本質的な勉強方法は同じなんだと思えます。

解答形式の違いから、その精度が、論文式では書ける程度に求められ、短答式では正誤判断できる程度に求められる、という違いがあるくらいです。

型を使って解答することに慣れてくると、こことここの表現入れ替えたりとかありそうだなとか、この表現を書き換えて選択肢にでてきそうだなとか、過去の経験なども踏まえた予測を立てながら勉強できるようになり、より効率的になっていったと思います。

まとめ

・判断基準がズレていたことに気付く
 基準等の記載内容と同じか、ではなく、自分の理解と同じ意味か、で選択肢の正誤を判断していた
 日本語の表現という曖昧な部分で迷っていた

・型を身につけることが大事
 基準等の表現をきちんと覚えることで客観的に判断できるようになる
 本質的な勉強は論文式と同じ、解答形式の違いにより求められる精度が若干違う

この記事で、問いにきちんと答える姿勢は重要だと書きました。

今回の話の気付き内容が、短答式における問いにきちんと答える姿勢なのではないか、と今になって思います。

すなわち、正解を通り過ぎていた私は、「正しい選択肢はどれか?」という問いを勝手に「あなたの理解と一番近い選択肢はどれか?」という問いにすり替えて判断してしまっていたわけです。

自分で難しくしてしまっていました。
ピントがあった時しか正解できないわけです。

だからこそ、短答式の正誤判断には、基準や条文などの記載そのものというピントがはっきりしたものを使う、という当たり前のことが重要です。

今回の話はおそらく、短答式は比較的すんなりいった人にはあまり関係ない内容かもしれません。

短答式がうまくいっていない方にとっては、その原因も様々とは思いますが、ひとつの参考として読んでいただければと思います。


最後までお読みいただきありがとうございます。

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