生きるということ
多分、人より死について考える時間が多い私なのですが、その分『生きるということ』について考える時間も多いのではないかな、と、ふと思いました。
病状が酷い際は希死念慮が常々あるという話を先日しましたが、それが少し落ち着いた後、逆に、どう生きるかについて物思いに耽ったりします。表裏一体というか、不思議なもんです。
『生きる』にあたって、まず自分自身がどんな生を望むのか。これが1番多い脳内会議の議題です
差し当たって、最近特に強く望むのは『20代』の喪失感を埋めたい。
突き詰めると、ここ半年程の行動にはそんな節があったような気がしますし、ある意味では『20代の自分』へのコンプレックスが原動力になっているような所があるような気もします。
タレントを志望していた10代の終わりから20代のはじめは、特に人間関係で深く悩み、また深く傷ついた時期でもありました。
人との距離感や付き合い方、自分の物事への向き合い方の甘さに苦悩し、絶望し、人と接することへの恐怖と、また反対に他人への興味。
私の人生における思春期はおそらくこの頃だったのではないかと思う程、多感で不安定な時期でした。
精神の崩壊に伴い、薬の量が増えた結果、20代はじめから徐々に体重が増え、芸能の道を目指す夢は自信と共に消失。ここから10年、振り返ってみると、ある意味では自分らしさを蔑ろにするような生き方をしていたような気がします。
20代の最後に、もうそろそろ身を固めよう。と思い立ち結婚。
表現が適切ではないかもしれませんが、これも実のところ私自身の夢からの逃避行動な側面がありました。
しかし不思議なもので、これが結果的に良かった。
少しずつとはいえ以前と比べ病状も落ち着き、また夢を追えるような現状への転化していったのですから。
いつの間にか30歳を超え、籍を入れ、世間的には『そろそろ落ち着くべき』とされるようなタイミングで『夢』を語ってもいいのかと、これについても実はよく考えます。
ここではじめの話に戻るのですが、私にとって目標なく惰性で過ごす日々は『死』そのものでした。
そういう意味では私の20代は、ちゃんと生きていなかったような気もします。
墓から出てきた、…いやイメージの話ですが、まだ服の裾は墓石に引っかかってるくらいのゾンビ。それが今の私です。
そんなモンスターが人間らしくなる為に、向かうべき試練が『夢』であり『生きるということ』なのだと思います。
また、人間らしくなる為には道理や筋も重んじたいですし、恥ずかしながら以前の私にはその辺りがどうもピンときていない所がありました。
自力で墓から這い上がれた訳ではなく、主人が、恩師が、家族が、仲間が、差し伸べられた周りの人たちの手を恐る恐る掴み、その力を借りて地上まで戻る事が叶いました。
そして今、また夢を追える環境にあるのも同じく、そんなかけがえのないひとりひとりの応援やお力添えのおかげで、これは決して当たり前の事ではありません。
私は死にたくなる、これは本心ではなく脳のバクなので申し訳ないのですが許してください。
私は生きたい、こっちが本音。
人間らしく生きたい。
そろそろ、モンスターは卒業したいです