Nothing's eternal

 初めて死という概念を直接体験したのは小学2年生の頃だったか。飼っていたハムスターが朝突然動かなくなり、学校から帰ると死んでいることに気づいた。それが私の人生において初めての死だった。泣きながらかごの前に立ち尽くし、このままここに置いとこうよ、という私に母は「死んじゃったら体が腐ってきちゃうから。悲しいけど、お庭に埋めてさようならをしよう」と牛乳パックを渡してきた。母はそれに小さく丸まって硬くなっているハムスターを入れ、裏庭に穴を掘って埋めた。土の中で腐っていくハムスター。死んでしまうならせめてその形を残しておきたかった、と思いながら空っぽのかごを覗き込んだ。


 日常的に大きな不安感に襲われて、そこから逃げ出せなくなってしまうことが多々ある。

 例えば六本木の映画館で、アナと雪の女王を見ている時、どうしても気になってスマホを開いて通知が来ていないか確認する。マナーが悪いのは重々承知だ。私だって、あの暗い空間でスマホを開いている人がいたら頭にくるだろうし、誰かに怒られたら素直に謝るしかないと思っている。でもどうしてもやめられないのだ。どうしても、右手がポケットの中に伸びる。家族が死んだり、事故に遭ったりしていたらどうしよう。今すぐ病院に来てくれ、と連絡が来ていて、それが一時間前だったらどうしよう。そんな気持ちが私の神経を高ぶらせ、意思に反して右手がポケットの中に伸びてしまうのだ。スマホ依存である自覚はある。実際に目も悪くなってきているし、何よりメンタルヘルスに良くない。時間だって無駄だ。なので電話の電源を落として一日を過ごすのはどうかと思い立って、ある日、スマホを部屋に置きっ放しにした。しかし数分と持たなかった。先ほどのような思考が頭を埋め尽くし、息ができないほど苦しくなってしまうのだ。救急車がけたたましくサイレンを鳴らしている。赤い光の中で呆然と立ち尽くす自分、待合室で爪を噛みながら終わらない時間を過ごし続ける自分、親の寝室のベッドの上でお笑い芸人(中川家とメイプル超合金)の動画をユーチューブで見続け、広告が入るたびに現実に引き戻されて泣いている自分、手術が終わるまで(それは一体いつなんだ?)、最悪の事態を想定する頭を叩くようにウォークマンの音量を最大にして同じ曲を何度もなんども再生している自分が蘇る。

 きっとトラウマなんだろう。でもどうやってこの不安を消せようか?人はみんな死ぬのだから、それは事実なのだから、親しい人の死への不安を取り除くことはできない。どうすることもできないまま、明治神宮前駅の地下に降りていく。


 不安感は生きている人間にも発動する。信頼する、ということが私はできないらしい。自分がちゃんと愛されていると信じることができない。相手がどんな行動を取ろうとも、数時間返信のないメッセージで猜疑心が芽生える。私はもう愛されていないのかも。別れを切り出されるのかも。信頼できないと疑う。疑うことで信頼関係が崩壊する。私は自分の猜疑心をなだめるために過去のその人の行動を振り返る。ほら、あの人はこんな素敵なことを言ってくれたじゃない。こんな行動もしてくれた。きっと今はただ忙しいだけ。あの人はそんな風にあなたを扱うような人間じゃないよ。そして私はびしょぬれの顔で答える。「そんなの過去の言葉じゃない。人間は変わっていくのに」


手紙には愛あふれたりその愛は消印の日のそのときの愛 /俵万智



 付き合っていた人から「信頼してほしい」と泣かれたことがあった。結局その人とは別れた。幸せで、きっとこのまま二人で一緒に居られるんだと思った矢先だった。それについては他の記事を読んでもらえばわかるのだけど、本当に後ろから殴られたかのようだった。色々な事情があってそういう結果になってしまったわけだけど、その時私は彼女の家を飛び出して公園の芝生の上で死体のポーズをしながらずっとしくしく泣いていた。泣いて泣いて、泣きすぎて若干キレられるぐらいだった。


 その人がくれたものを、昨年の年末にまとめて捨てた。別れてから二、三年経って、やっとそれらが自分にとって重荷に感じられたからだった。ありがとう、さようなら、愛しています、と声をかけながら手紙も全てビリビリに破いた。

「あなたみたいな人には今後出会えないと思った。今までは自分中心の人生を歩んできていたけど、それももうやめる。誰かと共に歩む人生を想像してみたい。」

 と書かれた手紙も笑いながら破いて捨てた。結局彼女は彼女中心の人生に戻り、私みたいな人にきっと出会っているのだろう。あの時はこの言葉を信じていて、彼女を信じていたけど、それは最終的には実現しなかった。裏切られた、と思った。でもそれは誰が悪いわけでもない。彼女が悪いわけでもない。ただ、そういうふうに変化してしまったというだけなのだ。変化しないことを望んでしまった私に宇宙が投げつけてきた馬糞でしかなかったのだ。結局何を言おうと全てがまやかしなのだ。その瞬間はそうでも、次の瞬間からどんどん変質していく。変わらないものなんてないのだ。言葉は生もの、言葉は変質していくもの、人間は変わっていくもの。

 過去の記事を読み返すと、私はずっと彼女の故郷であるオーストラリアという土地にかなり固執しているのがわかって苦笑いした。そこに戻りさえすれば、また彼女とのあの生活を取り戻せるとでも思ったのだろうか。頭をかきむしってブラウザを閉じる。

 21歳の頃の、恋人に振られてどん底にいた私は、死んだハムスターをかごに入れて残しておこうとしていた7歳の私と同じだ。あの頃の私はもう死んでしまった関係を抱きしめながらどうにか生き返らせようとしていた。冷たくなってしまったハムスターは、腐っていってしまうだけなのに。


 「人は死ぬ」と「何事も変化する」のダブルパンチで、私の日々に病的な不安は絶えない。

 嬉しい言葉を受け取っても、色を失っていくことを踏まえて、心がブレーキをかける。変わらないものはない、にしても、一度だけの人生は刹那。それを愛することはできないのか。


永遠に閉じ込めてくれ二人だけ分かる言語で話そうか来て /mayakashi


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