「心の中で生きている」について

私は20代なかばのごく平凡な社会人だ。

ここに、祖父を亡くして感じたことを書き記す。

祖父母は4人(それぞれに歳なりにどこか悪くしたりはしているが)健在で、遠方に住んでいることもありコロナ関係なしにざらに数年は会っていなかった。

一年ほど前、祖父の体調が思わしくないという情報が家族に共有された。

率直に言ってもう長くないと言われたものだから、慌ててスケジュールをこじあけて新幹線を予約した。

命の灯が残りわずかとなった祖父は、思い出のなかの祖父より細く軽く年老いていた。

縁側でタバコを吸い、毎日食事と共にお酒を飲み、まるっとしたおなかを抱えて、いつもめっぽう優しかった。

ユーモアのセンスはそのままに、しかし介助なしで身動きも取れない祖父を見て、触れて、一緒に写真を撮ったりなんかしていると、なるほど、こうして最後に向かって行っているのか、と腑に落ちた。

死が迫っていることから目を逸らし励ますような時期はとっくに過ぎていた。

身近な人の死を知らない私は、どこか人ごとのような冷静な心持ちでいた。

帰ってきて、喪服を買った。

それからしばらくして、子供たちに看取られ祖父は他界した。

買った喪服を抱えて葬儀に向かった。

祖父に会い、そして祖母に会った。

祖父がその人生を終え、もう動かないことを目の当たりにして、自分がどう感じるのか…これまでずっと想像できなくてそわそわしていた。

泣いたかどうかで言えば、泣いた。

ただでさえ記憶力のない私は、祖父との思い出なんてほとんどない。

涙の理由はよく考えてみると、母や祖母が祖父を想う気持ちに、かける言葉に感動して、残された人たちの今後に思いを馳せて、そして死の前の苦痛と解放を思ってというものだった。

文にしてみるといかにも、といった理由である。

母も祖母も泣いていたが、彼女らが何を思うのか、私にはまだわからない。


不思議なのは、一度も死から目を逸らさずしばらくの時を過ごした今も、私の中で祖父は死んでいない、ということだ。

死の前と後とで、私の中の祖父の存在は何ひとつ、ほとんど変わりがないのだ。

祖父は私の心の中で生きているから、というのもどうも違う。

生前も、祖父は私の心の中で生きていた。

連絡もたまにしか取らず顔は何年も見られていない…祖父はこれまでも私の目の前にはいなかった。

それが遠方の地か、天国かの違いだけで、それはほとんど(少なくとも自分にとっては)変わりがない。

せいぜい電話が通じないだけ…そんな具合だ。

私はまだ、死を知らないのかもしれない。

私の目の前の人が、私の心の中でしか生きなくなった時、私は何を感じるのだろうか。

まだわからないけれど、やはり死を恐ろしく思う。


葬儀はつつがなく、火葬したお骨は綺麗な器に入れて、近くのお寺さんにひとつおさめた。

たくさんの綺麗な生地で包まれたお骨が並ぶ小さな部屋。

千の風になってで「ここに私はいません」と言うが、ひんやりしたこの部屋には祖父はいないなと思う。

祖父はきっと、田舎の古い木造の、あの中庭の見える縁側にいる。

また会えたらたくさん話がしたい。

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