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陽下絢爛

湿り気とともに夏が足元まで来ていることを思い知らされる6月。

川沿いに立つ蚊柱が、鬱陶しさと共に夏の訪れを予期させる。

小さい頃は大好きだった夏も、今では嫌悪の対象となってしまった。

あれほど魅力的だったカブトムシ。見かけた時の高揚感はどこへ行ってしまったのだろう。今では見かけてもなんとも思わなくなってしまった。

歳を重ねるというのは、自然の摂理とはいえ、なんて罪なのだろう。人々からこうした感動さえも奪ってしまうのだから。

無邪気に駆け回り、何も気にせず思うがままに過ごしていたあの夏は、どこに行ってしまったのだろう。

自分はもう20歳になってしまった。
そしてシュウカツ、とやらにも手をつけなければいけない時期にも。
夏のインターンシップ、企業説明会。
どれだけ夏を嫌えばいいのだろう。

まわりの人と「同じ」であることを嫌い、常に周囲に同調することを極力避けてきた自分だが、結局はサラリーマンという敷かれたレール上を歩み、静かに死にゆくのだろうか。

そもそもレールの上を歩けるかもわからない。
生きるか死ぬか、すれすれの綱渡りをすることになるかもしれない。

敷かれたレールの上を歩む、この考え自体が傲慢である可能性もある。

一体どれだけの人が敷かれたレールの上を歩めるのだろうか。また、そもそも歩むことさえできない人はどうすればいいのだろうか。

こんなことを考えている間にも、時計の針は問答無用で時を刻み、今この瞬間に過去を生む。

仲の良かった友人たちとの別れや、付きまとう孤独が、身を啄み、蝕んでゆくなかでも、私は将来のことを考えていかなければならない。

そして覆しようのない夏の到来という事実。嫌なことに嫌なことが重なるというのは、ある意味で世の心理である。

そんな嫌悪してやまない夏にも、一つだけ好きなところがある。

それは、向日葵が見られることである。

太陽に向かって真っ直ぐに伸びゆくその姿は、人生に希望をもたらし、向上心を持って生きていくことの大切さを教えてくれる。

夏の間だけ咲き誇り、その後は散り、枯れていく様も命の儚さを説いているようで、人生とは何かを考えさせられる。

いっそ自分も夏の陽の下で咲き誇る向日葵として生まれたかった。

将来に絶望することなく、ただ太陽に近づきたいその一心で、陽の光の恩恵を受けながら空を目指し、季節が過ぎれば潔く散る。

これほどにまで美しい生き様があるのだろうか。

今日もまたこんなことを考えているうちに日の境目が訪れ、やむなく布団に入る。

こんな私に陽光が指すのは、一体いつなのだろう。

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