好きと言うリハビリ
好きなものを好きといい、嫌いなものには嫌いという。とてもシンプルなこと。
赤ん坊の頃はきゃきゃっと笑ったりわーっと泣いたり、全身で上手に好き嫌いを表現することができたはずなのに。何だか最近難しい。
家までの道を歩く時、凹凸のあるコンクリートの地面に手の内のスマホを叩きつけて、粉粉になった所を見たいと思う日が3日ほど続くと、あれ、と心の異変に気づく。
心がどろどろぐちゃぐちゃしている原因は、大抵、好きと嫌いがごちゃごちゃとした沼に陥っているからだ。
幸か不幸か、赤ん坊の頃とは比べ物にならないくらい頭と身体の成長したわたしは、物事をすべて好き嫌いの判断軸でばさっと分けることができなくなった。
詳述すると、
今も見聞きしたものに対して好き嫌いは瞬時に判別していて、むしろそのスピードは上がっているはずなのだけど、
問題として、それを疑って否定したりあるいはそれに気づかなかったふりをしたりと、自分の気持ちをそのまま認めてあげることが格段に下手になっている。
「これを言ったら相手は、周りはどう思うだろうか」「雰囲気を壊してはだめだ」「好きなはずなのに何で今日は嫌な気持ちになるんだろう」「嫌いというのは思い込みで、頑張れば好きになれるはずだ」云々。
好きと嫌いを隠して押し殺したり、言葉の導線をいじってつなぎ換えようとしたり。
自分の頭に従うから、毎日が複雑で仕方ない。
しかし、その間疑われて否定され、あるいは無視されている心はどんな状態だろう…そこまで蔑ろにされたら、そりゃあ、自己不信と自己嫌悪でいっぱいになるに違いない。
一体どうしたらよいのだろう。
そんな時、田中裕子さんという方のnoteにヒントを見つけた。今日からわたしも実践できそう。よい自分に向かう兆しが見えた。
それは「好き」という言葉を思いきって口に出すというリハビリである。
…帰国後、そこまで語ることがない段階から、好きなことには「好き」と言ってみるという地味なリハビリをはじめてみた。そのたびに恥ずかしかったり、ドキドキしたり、「言えたぞ」と達成感を持ったり。
「ラジオが好き」とか「ポルトガル大好き」、「ワインが好き」と軽く言えるようになったのは、わたしの中では大革命なのだ。
ー『「好き」という言葉が好きじゃなかった、ポルトガルに行くまでは』田中裕子さん
好きなものを好き、嫌いなものは嫌い、と軽い口ぶりで言う。たとえ声に出せなくても、一呼吸置いて心の声に頷くことにする。
「うんうん、これいいよね。好きだよね。」
「…これ嫌いだよね、分かってるよ。」
好きなものは、一生のたからもの。
嫌いなものは、自分を守る避難信号であり、たからものを見つけるための近道だ。
好きで好きでたまらないのに、好きって言えないもどかしさ。嫌いなのに、嫌って言えなかった数々の後悔の記憶。
もうできる限り味わいたくない。
まずは、
好きと言うリハビリのはじめの一歩として、わたしの好きなものをここに記して、自分の心を喜ばせてあげようっと。
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朝漂っている焼きたてパンの匂い
すぐそばで感じられた愛犬のふさふさやぬくもり
空気が澄んだ冬の日に、優しく降り注ぐ太陽のひかり
かすかに布団に残ったおひさまの匂いと温かさ
温かい飲み物を飲み終わった後のカップに残るぬくもり
ちびっこの心からの笑顔
買ったばかりの小説を持って帰るわくわく
ゆらりと香るコーヒーの香り
わたしを助けてくれる彼の毎日の呟き
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