「常識を疑え」へのツッコミ①
この言い分がちょこちょこ本の表紙や見受けられるようになってきました、「常識を疑え」と言われるだけでも何だかエラそうで嫌になります。
「私は正しいことが何かわかる」「常識に取りついている病巣を知覚できる」みたいなことを、遠回しに言われてるみたいで少し腹が立ちます。
ただし、常識を疑えといいながらそれがどのようにして可能になるのかうまく論じられた解説を読んだためしがありません。単にそのような文に出会ってないという私の力不足でもあるのでその点はお詫びします。それよりも「常識」を「疑う」ことが困難どころかほぼ不可能であることをここでは示していきたいと思います。
①常識の適用範囲
武道家で哲学者の内田樹先生は、『困難な成熟』という書籍で以下のように常識を定義しています。
そもそも常識とは、その考え方やアクションなどの「適用範囲が狭い」ものです。
つまり、どちらかと言えば常識それ自体を疑いに掛けるより、自ら「常識」と考えている思考や行動がその場所やタイミングなどの状況に適用するかがポイントになります。
とすれば、常識そのものを疑う以前にそれを「常識」と考えている自分へ疑いにかけるのが自然です。それは「今(常識として)考えているとうの思考もしくは行動がその状況に対して適切か?」という具合でしょうか。
まずその関門を通過しなければならない。
常識は変動的で文脈によってころころと変わってしまうものですが、それでも「常識を疑え」という考えが払拭できないのは次のことが考えられるでしょうか。
②常識は固定できない、また複数ありえる
そもそも常識は一つでしかないのでしょうか?
その状況に応じて変動するものであるからといってそこに最適解があるかといえばそれは違います。
そもそもその常識なる思考やアクションから得られる結果は固定的な「一対一」の関係に相当しません。一つの常識の運用をもってしても得られる結果は時間変動やその後のシチュエーションでころころ変わって微妙に違います。
常識は変動的である以上、固定的に一つのものに帰着しない。
常識は、適用されるその時は「c」で運用できても、使われる場所と時間経過から「c」からズレてしまいます。
(常識 = コモンセンス(common sense)の頭文字から「c」。)
なので、そもそも変動的な常識はそれ自体として実は常識でもなんでもなくてその状況(文脈)によって決まるものに過ぎません。それが固定的で変動しないとしたら、それは常識というより「真理」と言えるでしょう。
なので、常識はそれ自体として考えることができない以上疑いの眼差しを掻いくぐる。というか掻いくぐらなくても、いざ確かめたらもう「常識ではない」ことになってしまう。
自分でたてた卓袱台を返すことになりますが、
「今(常識として)考えているとうの思考もしくは行動がその状況に対して適切か?」という問いですら、そう問うている時点ですでに常識でなくなってしまうか微妙な調整が必要になり、ほぼ出たとこ勝負の話になるかと思います。
この論には、内田先生のロジックと他にジャック・デリダ先生というフランスの哲学者のロジックも引用して考えてみました。デリダ先生自身の文章を取り扱うのは難しいのですが、いずれ僕の犠牲者研究のもとに解説するときが来ますのでその時に紹介いたします。