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白紙にペンを走らせる

僕は、はっきり言って、文章を書くことに苦手意識を持っている。

この苦手意識とやらが、物心に植え付けられたのは
やはり小学生の夏休みの鬼門とも言える、読書感想文であったと思う。
とにかく書けなかった。

当時は確か原稿用紙3枚がノルマだった記憶だが
まず、書き出してしまうことに非常に恐怖感を抱いていた。
書き始めてしまうことによって、もう二度と後戻りが許されないような
―誰に許しを乞うていたのかは知らないが― そんな気がしていた。

ただ、これは読書感想文に限らず、自分が苦手意識を抱いている
物事全般に言えたことかもしれない。

文章を書くこと、絵を描くこと、ものを作ること、自己表現をすること…

これらの苦手意識の根底にあるのは、やはり最初の一歩に対する恐怖心
― つまり、「白紙の上にペンを走らせる」ことに対する畏怖の念だ。
しかしながら、そういった畏怖の対象は往々にして、
畏敬の裏返しであったりするものだ。


僕は、エッセイを読むのが好きだ。
ことさら、本業小説家―つまり、ものを書く、文章を生み出すことが
日課となっている人々の日常の思考を覗くのが好きだったりする。

昔はそういった人たちの文章を読んでいると、
自分の日常すら切り取ってエッセイとして表現し
昇華させていることに、ただただ驚きしかなかった。
自分とは何かを隔てた先にいる、超越した存在 ―
いうなれば、賢者のようなイメージを抱いていた。

しかしながら、いつのときか、ふと、思い当たった。
エッセイを書いている人たちは、いたってフラットな
いち人間として物事と向き合っているからこそ
こういった文章が書けているのだ、という感覚に。

つまり、表現の根底にある感情はいたってシンプルで、
口火の切り口はいつだって、誰の日常にもあるような
些細な入り口であったりするのかもしれない、と。

昔の自分はとにかくとにかく書けない、書くことが見つからない
― 今となっては、ないものねだりであったのだろう。

あるラジオでこんなニュアンスの話があった。

「年々怒りの感情が大きくなっているということは
 自分の価値観が積み重なってきているという証拠。
 自分の中で物差しとなる蓄積がないうちは、
 価値観の違いを認識できないため、まず怒り自体を沸くことがない。
 自分の中に軸となる蓄積ができて初めて
 自分の価値観を確固たるものとして自覚し、
 自己を確立することができる。
 そして、その価値観からはみ出た誰かの価値観に対して
 初めて怒りも沸くことができる。」

今、自分の中にどれほど積み重なったものがあるかはわからないし
この文章に向かわせている感情は怒りによるものではない(と思っている)
が、現にこうして、感情の赴くままにつらつらと
文字を書き連ねることができているということは、自分なりにも
少しずつ時が満ちてきたということか?


それに、このnoteのような電子的な媒体は、自分にとって
ずいぶんと書き出しのハードルを低く設定してくれていると思う。
キーボードに打ち込みさえすれば、レイテンシなく想いを表現でき
Backspaceひとつ押せば、ひと思いになかったことにできる
という手軽さはもちろんながら。

なにより、個人的に書きやすさを感じるポイントは
コピー&ペーストによる、文章構成の組み換えの容易さにある。
行き当たりばったりな文章を書きがちな僕にとっては、
この自由さになかなか救われている。

かつての原稿用紙に向かっていた時のような
書き始めたらやり直しがきかない、という感覚もあまりない。
下書きにあるうちはいつだって、
自分の気持ちの掃き溜めどころでしかないのだから。

ただ確かに、デジタルではない、アナログ的な物書きという
概念に対しては、いまだに憧れはある。
どこかの作詞家みたいに、
タイプした文字だと一見完成されているように見えてしまい
自分の中で良し悪しの判断がつきにくい。
そのままの手書きで、筆跡の絵面を見た時に
自分の中に生まれる「書けている」という感触を大切にしている ―
なんて、万年筆一筋で培った感覚にも憧れたりはするけれど。

でもこれも、ないものねだりのひとつなのかもしれない。
いくつになっても、ないものねだりに縋ってしまうくらいには
人は、のびしろしかないのだろう。


とにかく今は、自分のやりやすい環境、取り組み方で、自分なりに
このnoteという白紙の空間でペンを走らせよう。
それしかできない。

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