日本のシャープペンシルの歴史7(製造メーカーの発展2)
はじめに
前回は、関東大震災に耐えたシャープペンシルメーカーの事を紹介しました。前回紹介したメーカー以外にもまだ、震災前後にシャープペンシルを製造し続けているメーカーはありました。そのため、今回も震災前にシャープペンシルを製造し始め、震災後も製造し続けていたメーカーの事を紹介していきたいと思います。
震災後も製造し続けていた製造メーカー
1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が起こりましたが、大手万年筆メーカーであったスワン万年筆製作所は、震災後発行された「日本文具新聞」に自社の安否を報告し、万年筆と共にシャープペンシルを製造し続けていました。また、大阪に本社があったプラトンシャープ鉛筆(中山太陽堂文具部)は以前紹介した通り、OEM先であった早川兄弟商会から、中山太陽堂の子会社である日本文具製造株式会社への事業譲渡により、シャープペンシルを製造し続けました。また同じく大阪に本社があったバンコシャープポイントペンシル(江藤株式会社)も引き続きシャープペンシルの製造を続けていました。
・スワン高級ペンシルケース
スワン高級ペンシルケースの製造メーカーである「スワン万年筆製作所」は、明治時代から万年筆を製造していた老舗メーカーです。以前紹介した通り、1922年(大正11年)からシャープペンシルの製造を始めました。
"ペンシルケース”という呼び名は、スワン万年筆製作所が主に使用していたようです。シャープペンシルという名前が広まる以前は、各メーカー独自に名付けていたため、様々な呼び名がありました。
関東大震災後の1926年(大正15年)1月の「日本文具新聞」にも”スワンペンシルケース”として広告が掲載されていますが、文字のみとなっています。
1927年(昭和2年)7月には新しく”ホーシ(奉仕)ペンシルケース”が広告に文字のみ掲載されています。この”奉仕ペンシルケース”は時々骨董市でも見つけることができ、当時多く製造されたのだと思います。
・プラトンシャープ鉛筆
プラトンシャープ鉛筆の製造メーカーである「中山太陽堂文具部」は、中山太陽堂(現:株式会社クラブコスメチックス)の文具部として始まり、1919年(大正8年)日本文具製造株式会社として設立されました。その後、1924年(大正13年)にプラトン文具株式会社に社名が変更されました。万年筆やシャープペンシルの他にもインクやペン軸も製造していました。
1922年(大正11年)のラインナップには、クリップの根元に哲学者プラトンの似顔絵が刻印されたシャープペンシルが販売されていて、かなりインパクトがあります。また、親会社の中山太陽堂(現:クラブコスメチックス)は化粧品メーカーであったため、当時の広告はデザイン性が良く、お洒落なものが多かったです。
1926年(大正15年)には以前紹介した通り、OEM先であった早川兄弟商会(現:シャープ株式会社)から事業譲渡を受けました。1929年(昭和4年)頃までは従来から製造していた金属製のシャープペンシルを製造していたようですが、それ以降シャープペンシルの広告はあまり見られないようになりました。会社自体は1946年(昭和21年)プラトン株式会社に社名を変更し、1954年(昭和29年)まで続いていました。
・バンコシャープポイントペンシル
大阪の貴金属製品の老舗、尚美堂が大正7年頃、貴金属製造の専属工場である秀工舎に命じてシャープペンシルを製造させ、販売を行いました。その後、尚美堂から独立して、1922年(大正11年)「江藤株式会社」がバンコペンシルの製造販売を行うために設立されました。
その後、鉛筆や万年筆も製造し始め、昭和初期には輸出も含め大きく発展していきました。
戦後もしばらくは万年筆やシャープペンシルの製造をし続けていました。
おわりに
今回も関東大震災以前からシャープペンシルを製造していたメーカーの中で、震災後もシャープペンシルを製造し、昭和初期に迎える第二次シャープペンシルブームを牽引するメーカーを紹介しました。震災後には新しくシャープペンシルを製造し始めるメーカーも加わり、昭和初期には日本独自のシャープペンシルの進化が繰り広げられるようになります。