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会社員を辞めて出戻りした私が博士課程の3年を振り返る

先日、博士論文の最終審査会を終えました。
この会はいわゆるアカデミア用語ではdefenseと呼ばれ、自分の博士論文の内容について教授陣に発表し、自分が博士号を取得するに相応しいことを証明する場になります。

私の場合は、海外派遣を含むプログラムに所属していたため、審査員が海外の先生2人、日本の教員7人で全て英語で行われました。

思いつく限りの想定質問に対して準備をして、スライド数も合計130枚もあったのだが、結局想定していた質問はほとんど聞かれなかった。。。
結果的には、ほぼ全ての質問に対してそれなりの回答はできたので結果オーライだが、やはり教授陣恐るべし。
でも、自分、3年前から比べるとかなり成長したなーとしみじみする。

これで博士課程(PhD)は一区切りです。晴れてDr.の称号を貰えるわけですが、別にそれで何かが変わるわけでもありません。ただの通過点です。
(ってみんなカッコつけて言うし、たしかにそうなんだけどさ、博士取ってる人本当にすごいと思う、いろんな意味で辛いからね)
それでも、私のこれまでの人生の中では今までで一番大きな成果と言えるでしょう。
例えるなら、目の前の山をがむしゃらに登って頂上に着いたら、奥にもっとデカい山々がやっと見えるようになった、という感じでしょうか。
今回は、私が経験した博士課程の3年を徒然なるままに振り返ってみようと思います!

会社員時代

本題に入る前に少し会社員時代に戻ります。
タイトルに書いた通り、私は修士を取ってから、一度就職して会社で働いていました。
会社はwebサービスを中心に運営している中規模くらいのメガベンチャー?みたいなところで、社是や会社のビジョンが好きで入社しました。
やはり、入ってみるといい人ばかり、というか本当にいい人しかいない、そんな会社で、今でも大好きな会社です。なので、決して会社が嫌いになって辞めたわけではないことは強調しておきます。

会社では、エンジニアとして働かせてもらい、チーム開発やプロジェクトの進め方などプロダクト開発の基本的なことを学ばせてもらいました。ここでは、プライベートな話になるので、退社した理由は詳しく書きませんが、簡単に言えば、業界自体に全く興味が持てず、モチベーションを保つことができなかった、という感じです。自分はビジョンに共感するだけではモチベを継続することが難しく、自分の好奇心も刺激されるような仕事でないといけない、ということを知りました。
会社には本当に感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいですが、今でもこればっかりは実際に働いてみないと分からなかったなと思います。

そんなこんなで、研究に心残りがあった私は、博士に戻ることにしました。

博士 1年目(D1)

大学に戻ってから最初の1年が一番辛かったです。というか、今までの人生で一番辛かった期間でした。
修士から博士にそのまま進学した場合は、この博士1年目というのは比較的余裕を持ってじっくり研究に専念できる期間です。ただし、自分の場合は全くそんなことありませんでした。

私は、大学の国際共同大学院プログラム(海外の大学と連携して研究できるプログラム)に所属していました。そのプログラムは本来修士2年(M2)から始めるものなので、他の人がM2で終えている単位を全てD1-2で取る必要がありました。そのため、授業やそのプログラム関連の課題にかなりの時間が取られます。

そんなこんなで研究時間が取れないのにも関わらず、すぐに研究の結果を求められました。
でも、一度大学を離れたことによるリハビリ期間なるもの必要で、なかなか自分のリズムを作ることができませんでした。なので、最初の数ヶ月は研究方針を定める+課題で大半の時間を使い、余った時間でなんとか研究を進めるという感じでした。

それでもなんとか必死に頑張ったのですが、体は気づかない間に限界に達していて、D1の9月頃から頭痛が止まらなくなりました。起きても頭が痛くて、生活もできないレベルになりました。そこから悪循環が始まり、精神的にも限界を迎え、一度実家に戻って安静することになりました。
自分は軽い鬱症状で済みましたが、あと少し助けを求めるのが遅かったら、今でも病気と闘っていたと思います。もし、少しでも異変を感じたら、すぐに休んでほしいと思います。自分が休んだって世の中問題なく回っていくので。自分の健康が一番です。

この時期に大好きだったコーヒーも飲めなくなりました。自律神経の乱れでカフェインを摂取すると頭が朦朧してしまうので、ここから1年以上デカフェ生活の始まりです。これも追い討ちとなり、さらに精神的にボロボロになりました。

こういう時は、もうちゃんとした判断ができない状態なので、とにかく休むのが大事です。いろんな対処療法がありますが、結局は休んで時間をかけるしかないです。あとね、絶対生きてくださいね。生きていること、それこそが最上の幸せです。

なんとかSOSを出せたおかげで、数ヶ月実家で安静にすることができました。いろんな病院で診断を受けても、頭痛の原因が分からなかったのですが、最終的に首こりによるものだろうということに落ち着きました。頭痛にもいろんな種類があって、自分の場合は緊張型頭痛でした。首周りの血流が悪いことにより、頭全体が締め付けられるような痛みが出ます。頭痛には多様な原因が複雑に絡み合っているらしく、精神的ストレスによっても症状が出るので、本当に首こりが原因だったから定かではありません。今思えば、精神的にもものすごい
ストレスがかかっていたので、首こりとストレスのダブルパンチだったような気がしています。

首こり専門の治療院に週3-4で通い続け、徐々に頭痛が和らいで、動けるようになってきました。すると、精神的にも良くなってきて、年明けくらいに研究室に復帰できました。

ただ、前のように朝から夜遅くまで研究するという生活はもうできません。まずは生活リズムを安定させる、運動する、入浴時間をちゃんと取ることを徹底しました。

D1はほぼ会社から戻ってきたリハビリ+一時ダウン+再びリハビリで終わりました。正直、研究に専念できた時間はほぼなかったように思います。
人生で一番辛い1年間でした。

でも今振り返ると、この期間で人間的には成長できたのだと思います。生きることや幸せについてもたくさん考えたし、自分の限界も知ることができました。自己管理する大切さも学びました。カフェイン入りコーヒーを飲めない人がたくさんいることを知ったのもこの期間だし、神様が自分を成長させるために試練を与えたのだろう、とも思ったりします。

博士 2年目(D2)

徐々にいいサイクルで研究ができるようになってきたのが、やっとD2から。
長いトンネルを抜けて、研究成果も一気に出るようになりました。博士論文の主要部分はほぼこのD2の1年の成果なので、我ながらよく頑張った、、
いや、頑張ったという表現は良くないかもしれない。この時も頑張りすぎると体を壊すリスクがあったので、頑張りすぎないように頑張ったというのが正しい。

4-5月でヨーロッパで留学先のベルギーに滞在して、スペインで開かれたアストロバイオロジー系の学会(AbgradE)にも参加しました。スペインのLa Palma島で開催され、最高の学会でした。楽しかったー。

La Palma島

夏-秋は、ひたすら研究に打ち込み、その年の11-12月は再びベルギーに滞在して、新しいテーマで本格的に共同研究を始めました。この時期のベルギーは雨ばっかりでなかなか憂鬱な日々でした。笑
街中が装飾でキラキラになったヨーロッパのクリスマスシーズンを味わえたのは良かったです。休みの日に、北欧にも行って人生初オーロラも見れたので、本当に充実した1年になりました。

スウェーデンにて

順調に行った年というのは、あまり書くことがない、ということに気づきました。良いことですね。

年越しは、アメリカ留学時代からのパリに住んでいる友達を訪ねました。中心部のイベント近くはなかなかに治安が悪かったですが、フランス料理とクレープ、何より美術館を堪能して最高の正月となりました。(印象派のラインナップが感動です)

年明けすぐに帰国して、家族の行事を済ませ、また3月下旬から再びベルギーに渡航しました。最後のベルギー滞在です。

博士 3年目(D3)

博士最後の年は、前半はベルギー、後半は日本で過ごしました。
ヨーロッパの夏は過ごしやすく、ビールとフリッツ(ベルギーのフライドポテト)を堪能しました。ベルギーといえば、ビールとチョコが有名ですが、私はこのフリッツが好き過ぎて人生で最もポテトを食べた期間になりました(健康に悪すぎる)。
あと、Carrefourというスーパーのビネガー味のポテチが美味すぎるので、ベルギーかフランスに行く機会があればぜひ食べて欲しい。

ビールとフリッツ

この間にヨーロッパを回りたいと思って、週末はいろんな国に遊びに行きました。タイミング良く、パリオリンピックでバスケも観に行けました!

ヨーロッパのコーヒー屋をかなり巡れたのも、良い経験になりました。コペンハーゲン最高だったなー。
コーヒ屋巡りは以下の記事にまとめてあります。


さて、順調にこのまま終わるかと思われた最後の年ですが、事件が起きました。交通事故です。

日本の学会に参加するために一時帰国している時に、車にはねられました。普通に青信号を歩いていたら、右折してきた90歳のおじいちゃんにドカンです。完全に自分の死界から来たので、気づいたら道路の中央で倒れていました。不幸中の幸いで、軽傷の打撲とかすり傷ですみました。バスケで散々飛ばされたのがここで役立ったのかもしれません、、、

ドライバーの方は、話してもコミュニケーションも取れないような方で、事故直後はなぜこんな人が平気で運転しているのかと怒りを覚えました。しかし、交通の便が悪い場所だと高齢者の方が運転しないと買い物にも行けない、というのが日本社会の実情です。これは、個人の問題というより社会構造が本質的な原因であるなと考えさせられました。
切実に自動運転を早く全国に導入にしてほしい。

こんなこともありながら、最後の夏のヨーロッパを堪能して、9月に日本に帰国しました。帰国後はひたすら博士論文執筆、最後の章の研究を並行して進め、なんとか年明けに博士論文を提出しました。

その2週間後にDefenseがすぐあり、怒涛の勢いで博士課程が終わりました。
正式にDr.と名乗れるのは3月の学位授与からですが、ここまで長い戦いでした。

中学生の頃にアインシュタインの相対性理論の一般書を読んで、宇宙にハマり、そこから高校も理系の学校に進み、大学で物理を学びました。大学に入った時くらいから、宇宙それ自体というより、生命の起源に興味があったので、アウトロバイオロジーという分野に進むことに決めました。そして、火星から生命の起源に迫るという大目標に向かって、20代の大半を費やしました。

同年代の友達は、もう結婚して子供がいたり、起業していたり、会社でもエースのように活躍している人がたくさんいます。そんな中で、火星のことについてひたすら考えている自分はどうなのだろうか、と思い悩むことももよくありました。多分博士に進んだ人は誰しも一度は考えると思います。
でも、今思うのは、そんな一つのことについて探求したこの6年間(学部4年-博士3年)は何て幸せな時間だったのだろうということです。
一度会社で働くと、利益に一切捉われることなく、好奇心を爆発させることが許させる環境がどれほど恵まれた時間かを身に染みて感じます。
そんな環境を与えてくれて、感謝しかありません。

これからも自分の好奇心の赴くままに生きていきます。
そして社会に対しても自分だからこそ生み出せる価値を提供できたらと思っています。

最後にこれまでお世話になった全ての方にありがとうと言いたいです。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

ではまた!


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