celesteがどれだけ胸を打つかという独り言
もう大分有名になっているcelesteという、2018年にカナダで作成された2Dアクションゲームがあって、8ヶ月前にそれをプレイした。
それほど前の有名なゲームであれば、長々とも端的にもどれだけ素晴らしいかを評したものは多数ある。
参考)
https://news.denfaminicogamer.jp/gamenewsplus/180510b
しかし、このゲームについていつまでも燻ってしまう思いがあるので、自分のために吐き出しておく。自分に言い聞かせてるため、支離滅裂だと思う(予防線)
ゲームの構成要素は大きく分けると三点で成り立つものと思っている。
ストーリー
ゲームシステム
bgm
ストーリー性が無いゲームは、パズルゲームでは当然であるし、風のリグレットのようにbgm特化したゲームは存在するし、ゲーセンでbgmをじっくり聞ける環境はなかなか無い。
ただいずれにしても想起させたり、他の構成要素と補完関係にあったり、プレイ環境やその記憶がストーリーとして重要であったりと、結局はこの三点に何らかしらの形で立ち戻っていると思う。
celesteの素晴らしさはこの三点を全てしっかりと保持しているとも実感している。
switchでは2019年夏頃より、不定期にて、特定のソフトについて一定期間の無料プレイとセールを同時に行う「いっせいトライアル」という販促がある。その第五回、インディーズ作品としては初めてではないが、比較的初期にてこのcelesteが対象となった。今思えば任天堂のマーケティング力は間違いなかったが、「みんなで山登り」というキャッチコピーには全く興味は持てなかった。
コロナ禍の頃よりRTAiJという日本最大のゲーム早解きイベントを見るようになって、暇な時に過去のアーカイブを見ていた。celesteは既に2019年に配信されていた。
その配信ではストーリーの説明はあれど、RTA(speedrun)がメインの配信イベントであるため、プレイヤーの凄まじいプレイングに魅了されるばかりであった。しかし、何か引っ掛かるなとは思えど、その理由はわからなかった。
その後も2回ほど、RTAiJのイベントでcelesteは取り上げられるゲームのひとつにあがっていた。
今思えば仕事で相当悩んでいた頃、アクションゲームをしたくて偶然にもこのゲームを買ってプレイした。すでに配信やネット上の情報でこのゲームのバックグラウンドをある程度理解していたつもりだった。だがそれは間違っていた。
この表現もどこかのサイトでどこかの誰かが書いていたが、celesteは一人の精神的の女の子が険しく不思議な山を登り、自分と向き合ってあるがままの自分を受け入れるゲームである。この表現は非常に正確っだと考えるが、自分でプレイしない限りはこの評がcelesteの素晴らしさを表すことはきっと理解できない。正しく自分がそうだった。
このゲームは非常に難しい。一周するだけでも困難であるが、所謂裏面に隠しステージ、pc版ならmodによるマップなど、困難さならいくらでも味わえる。
しかしキャラクターの操作性にそこまでの複雑さは無い。マップのギミックや数ドットレベルでの位置調整やジャンプのタイミングの難しさがこのゲームの難しさである。実は自分も表面を一周しかしていないライト勢である。もうちょっと若い時にやっていれば…という言い訳を胸に、これ以上の難しさを諦めている。尚、celesteの設計上の難しさは死んだところからデメリット無しですぐやり直せることで、リトライ性の高さに繋げている。
bgmについては評論家になれる要素は持ち合わせていないので何が良いのかを言えない。electronicaのambientであることくらいしか表現はできないが、アクションステージのコンセプトごとに曲が設定されていて、ステージ内の進捗で少しずつ編曲されていくところはとても好きなタイプだ。
このゲームをどういう人にやってもらいたいか明確な気持ちがある。死んで覚えるタイプのアクションゲームに抵抗がなく、気持ちが落ち込んでいる人には是非提案をしてみたい。勝手な話、celesteの難易度の高さとリトライ性、自キャラが自分を受け入れていくストーリー、これがそのような人を多少なり前向きになるきっかけを与えるのではと思ったからだ。
後天的に精神的な病を抱えるきっかけの一つは、あるべき姿と現在の自分の姿にギャップを感じ、その原因を自分が悪いと大いに責めてしまうことである。その解決は、あるべき姿は姿として、自分の姿は姿として、それぞれを差があることを当然とし自分の姿を受け入れる、というものだ。うつ病に類する場合にこれは多く、創作物でも間接的に「自分の姿を受け入れる」展開を目にするのは珍しくない。
celesteは非常に難しいが、リトライ性の高さで少しずつ難所を越えていけること、自分の内面を表すキャラクターとの対話や展開、心に響く少し不思議な転調をするbgm、それらがプレイヤーの気持ちを揺さぶり、先ほどのような人にはきっと響いてくれるのではないか。それが胸を打つと思ったところだ。
内向的な人間にとってはゲームは体の良い逃げ場であって、その逃げ場の中で少しでも活力になるのはきっと悪いことではないはず。プレイヤーを楽しませるために産み出されたゲームの体験が日々の生活の糧になるなら、それは素晴らしいものでないだろうか。
ゲームは芸術作品ではなく商業作品である。ただ市場に出た作品であり、そのゲームを傷付けるものでない限り、受け手によって自由な遊びと解釈がされる。
日々の生活に疲れてしまった人に、celesteが少し何らかの癒しになったらと、実体験からそう思う。