【毛利輝元が西軍主将に/細川ガラシャ昇天/中村一氏死去】1600年7月17日
【毛利輝元が西軍主将に/細川ガラシャ昇天/中村一氏死去】1600年7月17日
毛利輝元が大坂城西ノ丸へ入り、豊臣秀頼を奉じて西軍の主将となると同時に、前田玄以・増田長盛・長束正家が徳川家康弾劾の檄文と、罪悪十三箇条を挙げた「内府違ひの条々」を諸大名に発す。またこの日、細川ガラシャ夫人(忠興の妻)が石田三成の入城要請を蹴り、玉造の自邸で家臣小笠原少斎の手により昇天。一方豊臣家三中老の一人、中村一氏が駿河府中城で病没。享年不詳(日付は7/25とも)。関ヶ原合戦へ向かう様々な事件が起きた日。従来毛利輝元は担がれて消極的参加と言われたが近年では相当積極的に関わっていた事が分かった。しかしそれは「東は家康、西は毛利」と言う全く見当違いな欲望だった。ゆえに西国諸将の領地をやみくもに攻め、不信感を買った。家康との器と遠謀の差を見せつけた三代目の愚行だった。 #どうする家康
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