「聴くの恩送り」がインフラになる未来|聴き合う組織をつくる『YeLL』のnote
あけましておめでとうございます。エール代表の櫻井です。
とある友人の話で、中国福建省にある「福建土楼(ふっけんどろう)」という住居のことを知りました。
聞けば、その友人の奥さまが、そちらの出身の方だと言います。
この住居は、マンションを円形や正方形にしたような集合住宅になっているそうです。
世界遺産にもなっているものもあり、ここから中国の政治家、東南アジアの首相や大統領などが数多く輩出されている、とのこと。
(参考:鹿島建設 幸せの建築術 https://www.kajima.co.jp/news/digest/apr_2016/architectonic/index-j.html)
この土楼で大切にされている「教え」の1つに、このようなものがあると伺いました。
『隣人に親切にしてもらっても、その人にお返しをしてはならない。
右隣の人に親切にされたら、反対の左隣の人に親切にしなさい。』
この教えがあるから、著名人が輩出されたのかは私には分かりません。
それどころか、全てが二次情報なので、これらの話がどこまで真実なのか、正直、私には分かりません。
ただ、この教えの1つは、思想としてとても好きだなと強く共感をしました。
日本には「恩送り」という言葉があります。
「恩返し」ではなく、「恩送り」。
いただいた恩をその人に返すのではなく、次の人に送るということ。
私は「聴く」というのは、「恩送り」の1つなのではないかと思っています。
悩んだ時、迷った時に、誰かにじっくり話を聴いてもらう。
聴かれることで、自分の気持ちや考えが整っていく。
それによって、自分に何かしらの良い変化が起きる。
すると、自分も聴くことで誰かの役に立ちたいと思う。
そして、実際に話を聴くと、相手の気持ちや考えが整っていく。
聴かれる → 聴きたい → 聴く(=次の人が聴かれる)
という流れは、連鎖的に起きていきます。
私はこれを「聴くの連鎖」と呼んでいます。
そんな恩送りが連鎖していく世界が広がったらいいなぁ、ステキだなぁ、と思うわけです。
と同時に、聴くの連鎖が起こる条件として、割と見過ごされる点があると思っています。
それは、
身近な人の話を「聴く」のは難しい
という点です。
「聴くって大事だよね」と頭では分かりながらも、妻や夫、親や子ども、上司や部下の話となると聴くのが非常に難しい。
自分視点で、評価・判断することなく、without Judgement で、身近な人の話を聴くというのは、相当に難易度が高いものです。
ここ非常に大事なところなので、もう少し正確に言うと
身近 “なのに” 聴けない、ではなく
身近 “だから” 聴けない、んだと思っています。
例えば、私の話で恐縮ですが。
私は、エールの代表をやるぐらいなので「聴く」というコミュニケーションについて、それなりに学んでいるつもりです。
コーチングもカウンセリングも知識としても、体験としても、技術としても偏差値60ぐらいはもらえるのでは?と思っています。
にも関わらず、「自分の母の話を、2時間じっくり聴いて」と言われたら、正直まったく自信がありません。
話を聴こうとしても、つい「すぐそういう考え方になっちゃうんだよなー」とか、「また同じこと言ってるよ」と思ってしまいます。
自分視点の Judgement が、気づくと私の思考に割り込んできてしまうのです。
でも、もしも、今この記事を読んでくださっているあなたのお母さんのお話であれば、私は Judgement することなく、2時間でも、3時間でも聴き続けられると思います。
これは会社の上司と部下の間でも同じことが起こっているのではないでしょうか。
上司として、部下の話を聴くことの大切さは分かっている。「意見やアドバイスを言う前に、まずはちゃんと聴こう!」と思いながら、話を聴き始めます。
しかし、少し聴いているうちについ「まずは自分のやることやってから言えよ」とか「いつも口だけで、結局やらないじゃん」というような自分視点の思考や感情が、自分の内側に湧き出てくる。
この反応は、身近 “だからこそ” 起きやすいのです。
仮に全く同じ内容の相談であったとしても、もし相手が前職の部下だったらどうでしょうか。
まずは評価・判断することなく、Judgement することなく、一旦「聴く」という時間が自然と取れたりしてしまうのです。
「聴く」ということへの関心や時間、スキルをどう高めていくのか?という視点はもちろん大事です。
ただ、どれだけ「個人」としての関心/時間/スキルを高めても、この身近だから聴けないという「構造」としての課題を解決しないと、「聴くの連鎖」は起き得ないと思っています。
では、どうやってこの構造上の課題を乗り越えるのか?
最近、篠田真貴子さんから伺って、感銘を受けた言葉があります。
The future is already here, it's just not evenly distributed yet.
未来はすでに実現している。ただ偏在しているだけだ。
William Gibson
ここまで夢物語のように「こんな世界がきたらいいなぁ」と語ってきた「聴くの連鎖」ですが、実はその未来はもうすでに小さく実現しています。
ということで、既に起きている小さな現実を書くことで、未来の可能性を表現することにしてみます。
これは実際にYeLLで起きていることです。
A社で働く鈴木さんは、B社の高橋さんに週1回30分、オンラインで話を聴いてもらっています。
鈴木さんは、社内では少し言いづらい感情的なモヤモヤや、上司に相談する前に自分の中で頭の整理しておきたいこと、また、時間を取りたいけどつい後回しにしてしまう振返りなどを高橋さんに聴いてもらっています。
一方、高橋さんと同じB社で働く溝口さんは、C社の斎藤さんに、週1回30分、オンラインで話を聴いてもらっています。
そして、その斎藤さんは、D社の坂井さんに、話を聴いてもらっています。
つまり斎藤さんは、社外の人の話を聴きつつ、自分も社外の人に話を聴いていもらっています。
坂井さんと同じD社の須藤さんは、ぐるりと回って、A社の竹内さんに話を聴いてもらっています。
YeLLというプラットフォームの上では、既にこのような「聴くの連鎖」が起きています。
身近な関係でないからこそ届けられる「聴く」が、会社という組織の枠を越えて、実際に連鎖・循環しています。
日本中の誰もが知るような大企業と大企業の間でリアルに起きている現実である、ということは「聴く」における希望だと、私は思っています。
「部下の育成は上司の仕事だ。だから、部下の話は上司がきちんときくべきだ。」
という意見には、私は半分賛成、半分反対です。
・上司だからこそ、できる関わり方
・上司だからこそ、できない関わり方
この2つをきちんと分けてデザインしたいと思っています。
そうでないと、上司も部下も、ひいては会社が不幸になります。
「上司だからこそ、できない関わり」というのは、できるだけ文脈や背景が遠い人の方が、実施の難易度が低いです。難易度が低いということは、時間帯効果や、費用対効果が高いということです。
こう考えると分かりやすいかもしれません。自分のお母さんに対して
・娘(or息子)だからこそ、できる関わり方
・娘(or息子)だからこそ、できない関わり方
「娘だからこそ、できない関わり方」を、似たような文脈や背景にいる兄に任せたとしても、あまり上手くいくとは思いません。それよりは、娘であるなら「娘だからこそ、できる関わり方」に注力をし、「できない関わり方」は他の人にお願いする。その代わり、あなたも身近でない人の話をどこかで聴く。
この方がみんながハッピー、かつ、効率的な社会としての構造ではないかなと思うわけです。
親と子ども、上司と部下の組み合わせは変えられない。もしくは変更が難しいものです。
一方で、会社などの特定の集団を越えて支え合うプラットフォームがあれば、組み合わせは自由です。そこまで難しいテクノロジーを使わなくとも、ピッタリの相手をマッチングすることは容易です。
ここでは「The future is already here」の一例として、YeLLというプラットフォーム上で起きていることを提示しました。
最後は、アダム・グラントさんの著書「GIVE&TAKE」の一節を引用して、この記事を締めたいと思います。
『テイカー(真っ先に自分の利益を優先させる人)がネットワークを築くと、決まった大きさのパイからできるだけ多くの利益を自分のために奪おうとする。(中略)
ギバー(人に惜しみなく与える人)がネットワークを築くと、パイそのものを大きくするので、誰もが大きめの一切れをもらえる。』
社会に既にある「聴く」というパイを奪い合うのではなく、本来人間が持っている「聴きたい」「聴かれたい」という欲求を活かし、「聴くの連鎖」を生み出していく。
それにより「聴く」というパイそのものを、みんなで大きくしていく取り組みができたなら、それはとてもステキだなことだなと思っています。