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【中編小説】乳は銃より強し。(3/4)

最初の話 前の話

忙しい人のためのここまでのあらすじ

銀行員の水守和歌みなもりわかは、ある昼下がり銀行強盗に遭遇。たった一人で大男、つかさに人質に取られた彼女は、パニックになる代わりに、自慢の乳を使って強盗に取り入ろうと試みる! 素晴らしい乳のパワーで錯乱意気投合し一緒に銀行強盗を遂行することに決めた二人は、警察との交渉を進めようとしていた。

※長いです。


 司は私を見たまま、トランシーバーを口元に寄せ、私が言った通りの要求を始めた。30分以内。スモークガラスのミニバン。盗聴器や発信機はナシ。遅れたら人質を拷問。

『メーカーに希望はあるか? ――どうぞ』

 司がチラリとこちらを見る。私は唇を結んで、首を横に振った。

「なんでもいい。早くしろ」

 司はぶっきらぼうに言って、送信ボタンから手を離した。

「次は?」

 興奮して狂わんばかりだった当初と違い、今や彼の声は至極落ち着いていた。良い兆候だろう、きっと。

 私は顎で司が持ち込んだボストンバッグを示した。それは今、床の上にだらしがなく口を開けて広がり、紙帯で留められた百万円の束が覗いている。

「それを持って、私を銃で脅しながら金庫までついてきてください。とりあえず、ありったけ突っ込みましょう」

 司は素早くバッグを引っ掴みながら立ち上がり、頭を低くした。辺りを警戒するように首を回す。

「監視カメラでもあるのか?」

「ええ。あそことあそこに」

 私が天井に取り付けられたカメラの方に視線をやると、司は軽く頷いて、床からバラクラバ帽を拾い、もぞもぞと装着した。最後にゆっくりと拳銃を拾い上げる。司は右手に銃を持ったまま、もう片方の手で私の腕を掴み上げる。痛くはないが、容赦も無い手つきだった。

 私たちが立ったことで、司の肩越しに見える警官や機動隊が俄かに動き出した。司が素早く私の背後に周ったかと思うと、太い腕が私の首に周り、軽々と振り向かされる。気が付けば、自動ドア越しに警官達へ見せつけるように頭に銃口を突き付けられていた。

 思わず引きつったように体が強張り、喉がゴクリと鳴った。

 演技とはいえ、司の指が不意に痙攣でもしたら私の紫色の脳細胞はきれいにぶちまけられるだろう。なんて勿体ない! だが、背中に押し付けられた胸から伝わる鼓動はゆっくりとしていて、震えもほとんど感じられなかった。

 まぁ、今、震えているとしたら私だろう。少なくとも、私に銃口を突き付けている男は落ち着いている。良いことだ、多分。私は大丈夫だ。自分に言い聞かせる。

「落ち着け。ゆっくり下がるぞ」 司が前を睨みながら、ぼそりと囁く。私はいつの間にか止めていた息を再開し、わずかにリラックスを試み、首肯の代わりに肩を上げ下げする。銃が突き付けられた頭は、怖くて動かせなかった。

 司にはそれで伝わったらしく、宣言通りゆっくりと 後ろに下がり始めた。一歩、二歩……。バックヤードに引っ込むと、正面から突撃される不安が薄れたためか、司は大きく息を吐く。首にまわった腕の力が緩んだ。

「……先導するので、背中に銃を向けておいてください。狙撃されるかもしれないので、窓際では私の影に入るように」

 私は極力唇を動かさずにつぶやく。意図せず声が震えた。司が顎を引いた気配がし、首を解放される。じんじんと痛む首を揉みたかったが、クソ結束バンドのせいでそれも出来ない。早く解放されたい。

「分かった」

 司は指示された通り、私を前に行くよう小突いた。数秒して、背中に固いものが当たる。反射的に体が強張った時、後ろからイラついた舌打ちが聞こえてきた。

「安全装置がかかってる。引き金は引けない……それで安心できるなら」

 声は存外優しかったが、私は「ハッ」とあざけった。緊張と緩和で、目じりに生理的な涙が浮かぶ。

「ずいぶん手馴れてるじゃないですか」

「ダチがサバゲ―好きなだけだ」

 挑発めいた言葉にも、司は淡々と答えるだけだった。

「じゃあ、その銃も実は偽物とか?」

 司が銃把を握り直す冷たい音がして、さらに背中に銃口が食い込んだようだった。背中の痛みに集中すると、むしろ気がまぎれる。

 司は嘆息した。

「……闇サイトで買ったんだ。試し撃ちもした」

「あぁ。……それで、まるの飼い主は、まだ生きてますか?」

「残念ながらな」

 司は皮肉っぽい口調でそう言った。ややあって、後ろから神経質な衣擦れの音が聞こえる。

「……おい、アンタ、まさか怖がってるのか? 自分で言いだしたことだろう」

 言い返そうとしたが、ヒッ、と引きつった声が喉から漏れた。私は何度か唾を飲み込み、口の中を湿らせようと試みる。

「……つまり。頭で分かってても、体は正直みたいな?」

「つまり。イカれてるのは頭だけだって言ってるのか?」

 私は笑ってみたが、若干引きつってしまうのを止められない。

「もちろん、私の体は最高です」

「ああ絶好調で安心したよ。落ち着いたならさっさと行け」

 司は鼻を鳴らし、今までで一番皮肉っぽい口調で言った。

 私たちはなんとか狙撃されることもなく店舗の奥に進み続け、やがて大仰な全室を超え、1メートルは厚みのあるメタリックな丸い扉をスルーして、無事に金庫室に入った。

 司はさっさと私の横に進み出ると、棚に収められた札束をボストンバッグに詰め始める。

「何で扉が開きっぱなしなんだ?」

 他にすることもなくぼんやりと突っ立っていた私が、むせかえるような新しい紙の香りを吸い込んでいると、司が不思議そうに尋ねる。

 私は首を振った。

「開閉にバカみたいな時間がかかるので、営業中は開きっぱなしです。一度閉めると翌朝までロックされます」

「物騒じゃないか? 誰か魔が差したらどうする?」

「そのために大量の監視カメラと屈強な警備員が控えています」

「で、その屈強な警備員はどこだ?」

 私は悲しげに眉を下げ、芝居っぽく目を潤ませた。

「ドサクサで裏口から逃げたんじゃないでしょうか」

 司はなぜか前かがみになり、やたらと大きな音をたてて息を吐いた。数秒その姿勢をキープした後、何事もなかったかのように札束を詰め込む作業に戻る。

 私は間抜けな鳥のように首を傾けた。

「……どうしたんです?」

「いや。俺はもう付き合わないぞ。頭がおかしくなる」

 銀行強盗をも狂わせるクレイジーっぷり。うーん、自伝に書けるだろうか。私は脳内の原稿に丸印をつけた。

 司は首を振りながら無造作に札束を詰め終えると、しっかりとボストンバッグの口を閉じた。私の方を振り向く。

 私は頷いた。

「戻りましょう。あまり遅くなると踏み込んで来るかもしれません」

 司は喉を鳴らして返事をすると、顎をしゃくって私を促した。

 私たちが行きと同じ手はずで戻ってくると、外で待機している警官や機動隊員が慌ただしく動き回り、携帯電話やトランシーバーで何やら連絡を取り始めた。

 司は再びカウンターの裏にしゃがみこむと、重そうな音を立ててボストンバッグを投げ出した。私も司と向き合う形で体育座りして、可哀そうな腕を膝の上に置いて休ませる。

 司はトランシーバーを拾い上げると、送信ボタンを押した。

「車の準備は?」

 数秒の沈黙の後、ノイズがガラガラと戻って来る。

『もうすぐだ。姿が見えなかったが、何をやっていたんだ? どうぞ』

 司の視線が私に向く。 まぁ、ここはどう答えてもいいだろう。私は頷いた。

「……金が足りなかった。女に案内させて、取りに行った」

『何のために金が必要なんだ? 人質は無事か? どうぞ』

「お前には関係ない。女は無事だ」

『声を聞かせてくれないか? どうぞ』

 司が送信ボタンを押して私にトランシーバーを押し付けた。私は瞬間的に顔をグシャグシャにする。

「うぅッ……だずげで……怖いです……」

 司は口を半開きにして明らかな軽蔑の念を送ってきたが、私は無視してさめざめと泣くフリをした。

『ケガはありませんか? どうぞ』

「えっと……はいぃ……」

 司はトランシーバーを引き戻し、乱暴に怒鳴った。

「もういいだろ! 車は!?」

 何となく演技ではなく、私に対する個人的な感情を警察にぶつけているのではないかという気がしたが、いやぁ、多分、そんな気がしただけだろう。そうに決まっている。

『……落ち着け。準備はできた。いいか? 馬鹿なことは考えず、人質を解放するんだ』

「うるさい。車を店の前に停めて、機動隊を下がらせろ。下手な動きをしたら女は殺す」

『分かった! 分かったから早まるな。……これは提案だが、人質をこちらの用意した警官と交換してくれないか? 彼女は一般市民だ。何の罪もない無垢な存在だ。どうぞ』

 司の喉から鶏を絞め殺したような音がした。何かの叫び(ツッコミ?)を無理やり押し殺したかのようだった。トランシーバーを握る司の手が震える。

「……人質を交換するつもりは、ない!」

 司は一音一音、歯の隙間から絞り出すように言った。 なんだ、そんなに私に未練があるなんて? まぁ、無理もない。一緒の時間を過ごすうち、私の魅力にやられたに違いない。

 私は意味ありげに体をくねらせる。

 司はえずいた。なんでだよ。私の色気はまだ早かったか! ガキめ!

『分かった。彼女を傷つけないでくれ。君は、これまで誰一人傷つけてないだろう? ただそれを続けてくれ』

「指図するな。早くしろ」

 司はぶっきらぼうに言って、送信ボタンから手を放す。彼は神経質な鋭い動きでカウンター越しに店の入り口を首だけ振り向いた。手袋をはめた手で、神経質に銃の安全装置らしき部分をいじっている。

「……緊張しているんですか?」

 司は顔を入り口に向けたまま、視線だけ私に寄越した。

「黙れ」

 言い捨てた司の声から、肌を刺すような暴力の臭いが漂っている。

 本気でナウ〇カを目指すしかないのかもしれない。

 私は内心震えそうになる自分を抑えながら、ゆっくりと口を開いた。

「まるのことを思い出して、ゆっくり深呼吸してください。大丈夫。きっとうまく行きます」

「あ、ああ……」

 司は深呼吸して、首を振った。

「すまない。大丈夫だ」

「うーん、落ち着かないなら、ぬいぐるみみたいに私を抱っこして連れて行きますか?」

「車が来た」

 渾身のジョークが滑り倒した。

 なんだコイツ。ちょっとは調子を合わせてくれる親切心は無いのだろうか?

 だが実際、外が俄かに騒がしくなり、黒いバンが自動ドアの前で止まった。盾を構えた機動隊が整然と下がって行く。

 司は私を振り向いて、バラクラバ帽の端を下に引っ張る。

「行くぞ」

✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼

 司に盾にされながらなんとか車内に滑り込み、私は荷物のように助手席へと押しやられた。

 車内には、重苦しい沈黙が落ちている。司がハンドルを指先で叩く鈍い音だけが響いていた。

「……それで?」

 司の声が威圧的に響く。私は激しく揺れる心臓が落ち着くことを期待しつつ背もたれに背中を押し付け、肩の凝りをほぐそうと試みる。

 質問を無視して外を見ると、いつの間にか雲行きが怪しくなり、小雨が降りだしていた。スモークガラス越しに機動隊が緊迫した顔つきで取り囲み、しきりに無線で何かやり取りしながら様子をうかがっている。

 しばらくボーッとしていると、イライラした舌打ちが聞こえて来た。次いでエンジンをかける音が響き、緩やかに車体が動き始める――と共にけたたましいブザーが鳴り響き、キュッと停止した。

 司がさらに大きな舌打ちをして私を睨んだ。

 まあ、この手でシートベルトなんか締められるわけがない。

 私が彼の方を向いて結束バンドで縛られた腕を振って見せると、彼は苛立った吐息を漏らしながら自分のシートベルトを外し、私の方に大きく身を乗り出した。

 司の顔が迫って来たタイミングを見計らい、私は掠れた声で耳打ちする。

「盗聴されてるかも」

 司は唸り声を上げながら、のしかかるようにして私のシートベルトを乱暴に締め、おもむろにカーオーディオの電源を入れ、何やら操作した。すぐにアゲアゲなEDMが流れ始める。

 耳に馴染む重低音に、ふと行きつけのクラブにいるような錯覚を覚える。

 いわゆるチャラ箱と呼ばれるようなナンパ目的のクラブはアフターファイブの定番だ。女性はたいてい入場無料だし、胸の開いた服を着て隅に立っていればほとんど入れ食い状態で相手に困ったことはない。

 今の暫定彼氏である卓也が声をかけてきたのも、そんなありふれた夜だった。彼は私に話しかけてくる男たちの中で唯一、胸を見ずに顔を見て話す男だったから、もしかしてそこに何かあるのかもしれないなんて勘違いしたのが始まりだった。真実は、単純に彼が乳派ではなく尻派だったという悲しいものだったが……。

 などと考えて頭を振っていると、何を思ったのか、司が狂ったように音量ボタンを押しまくった。

 み、耳が痛い!

 暴力的な爆音が空気を割り、ズンズンという重低音が腹の底まで揺さぶってくる。しかも拘束のせいで耳を塞ぐこともできない。思わず顔をしかめたが、司はおかまいなく私に顔を近づけてきた。

「で?」

 爆音のせいでほとんど聞き取れるかどうか程度の声量なのに、私はなんとなくサディスティックな笑みを嗅ぎ取った。

 まあ、小声で話すよりもこの爆音の中で話した方が盗聴に対する安全度は高いかもしれない。けれども彼の個人的な復讐を兼ねているような気がしてならないのは何でだろう? そしてなぜ同じ状況なのに司自身は平気な顔をしてるんだろう?

 とにかく、この苦痛を可及的速やかに終わらせるべく口を開く。

「……高速に乗って、海老原サービスエリアに行ってください」

「なぜだ?」

「あそこなら、徒歩で一般道に抜けられます。一瞬だけ侵入して、あなたは追っ手に気づかれないうちにそこから逃げます。私はあなたのフリをして逃げ、警察をひきつけます」

「いやに詳しいな」

「彼氏がドライブ好きなので」

 司の目が見開かれた。

「アンタに、彼氏……だと?」

 失礼な。私は司を睨んだ。この近距離だと、彼の重い目蓋に刻まれたセクシーな二重のラインや、赤褐色の澄んだ瞳がよく見える。

「そりゃいるでしょう彼氏の一人や二人。三人や四人」

「アンタに限ってはそれが本当でも驚かない」

 私は唇を尖らせた。

 暫定の彼氏は卓也だが、別に排他的な関係を約束している訳でもなし。彼氏の定義が遊ぶ男なら、正直何人いても構わないと思う。

 とはいえ実際問題、もし乳派のイケメンが彼氏に居れば、卓也のような尻星人はノシつけて母星に返送しているだろうが。

 ああ、なんで司は銀行強盗なんだろう? つくづく勿体ない。

 私が意味ありげに彼を見遣ると、司は突然寒気がするかのように体を震わせた。……まぁ、多分、エアコンが効きすぎているのだろう。

 司は気を取り直したようにハンドルを握りしめた。

「……追ってくると思うか?」

「来るでしょう。どうせ発信機が無くてもカーナビのGPSかなんかで追跡が可能なはずです」

 それを聞いた司は急に不安になったのか、貧乏ゆすりを始める。

「うまく行くんだろうな」

 私はかすかに首を傾けた。

 作戦はこんなところだろう。あとは臨機応変にやるしかない。今のところ穴は無いはずだ。私は念のため、もう一度頭の中で作戦を転がしてチェックしたが、特に抜け漏れは無いように思えた。

 何か忘れているような気がする。

 なんだろう?
 しばらく考えてみたが、分からない。多分気のせいだろう。

 私は首を振った。

「まぁ……あとは素早くことを進めるしかないです。……ただ、もし失敗して捕まっても、私が協力しようとしたなんてことは言わないでくださいよ」

「チクッたりしない。アンタには……借りがあると思ってる」

 司は腹立たしげに言いながら乱暴に音楽を止め、ポケットから取り出したナイフで再び私の結束バンドを切り離してくれた。

 最初から切ってくれれば良かったのに。今まで忘れていたのだろうか? ようやく自由になった両手をさすりながら、私は肩をすくめた。

 彼の言葉は、なぜかくすぐったい。

 司が何を言おうと、結局警察が信じるのは私の言葉だろう。だから技術的には彼が私をどう思っていようと関係ないはずだ。だから気にする必要はないはずだった。

✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼••┈┈••✼

 いよいよ海老原サービスエリアに近づいてくると、緊張で胸が高鳴った。こっそり司の様子をうかがうが、バラクラバ帽のせいで表情はよく分からない。ひたすら運転に集中しているように見えるが、上下する胸のテンポはやや速いようだ。

 司が私の顔を横目で見て、「おい」と低くつぶやいた。彼は車の後部を顎で指す。

 何だろうと振り向くと、黒いワンボックスカーが高速道路にしては短い車間距離で張り付いている。

「さっきから着いて来やがる」

 ぼそりと言われ、心臓が跳ねた。警察の尾行? こんなに分かりやすく?

 私は目を細め、体を捻って後部座席に身を乗り出す。ワンボックスの助手席辺りで、何かが落ち始めた太陽光に反射して光った。

 私は振り向きざまに勢いよくボタンを押して再びあの馬鹿げたEDMを流し、司の耳に顔を近づける。

「カメラです。多分マスコミです」

 バラクラバ帽の上からでも分かるぐらい司の顔が歪んだ。

「警察は止めなかったのか?」

「さぁ……馬鹿はどこにでもいるんでしょう」

「どうする? ……殺るか?」

 司は胸元から銃を取り出そうとしている。私はその手を押さえた。

「気が早い」

「時間がない。もうすぐ着くぞ」

 司は私の腕を振り払おうとしている。

「いや、ちょっと……」

 私は言いよどんだ。

 何が起きようと司の罪になるので報道マンの二人や三人死のうと知ったことじゃないが、被害が大きければ警察の追求も厳しくなる。リスクはなるべく避けたい。

 私は慌てて辺りを見回した。

 持ち物といえば司のナイフ、銃、スマホ、結束バンド、お金の入ったボストンバッグだけだ。一方、突如連れ去られた私自身は窓口対応用の制服姿で、持っているのはポケットに入れたハンコぐらいだった。嫌がらせに司の手にポンポン押してやるぐらいしか使い道がない。

 私の視線は床に置かれたボストンバッグの方へと吸い寄せられる。

 そういえば、アレをやってみたかったんだよね。銀行員なら誰でも一度は夢見たことのあるアレ。これはチャンスでは?

 私は床のボストンバッグに飛びつき、力任せにジッパーを引っ張って開けた。中の札束を掴んで床に放り出し、次から次へと紙帯を引きちぎっていく。

 頭の後ろで司が何か叫んでいるような気がしたが、EDMのビートに合わせて華麗に無視した。

 私は片手を伸ばしてパワーウィンドウのスイッチを勢いよく押し込むと、両手でお札を鷲掴み、開いた窓から景気良く放り出した。

「――してる――クソ女!?」

 EDMの爆音を上回る怒号が響き渡ったが、私は聞こえないフリをしてけたたましく笑い声を上げた。心臓が誇らしげに高鳴り、頬まで熱がのぼってくる。ああ、資本主義に砂をかけて笑うこの所業!

 背後を確認すると、ちょっとした奇跡が起きていた。風がちょうど良い具合に吹いたらしく、舞い散ったお札の大半が後続車の正面に降りかかっていた。さらに小雨のせいでフロントガラスやボンネットにベタベタと張り付いていく。その様はまさに、渋沢栄一にお株を奪われた諭吉の執念だ。

 視界が遮られたのか、車は蛇行し始めた。

 がんばれ諭吉!! 負けるな諭吉!! まだ現役ってところを見せてやれ!

 諭吉の勇躍と共にほとばしるエクスタシー。私は音楽に合わせて腕を振り回し、天を仰いで咆哮を上げる。

 とそこでちょうどカーブに差し掛かり、察した後続車が減速し始めるのが見えた。司が危なげなくカーブを曲がり切った後、後方から何やら急ブレーキに似た音と、大きな物がぶつかるような音が聞こえてくるが……多分、気のせいだろう。

 私はさらにけたたましく勝利の雄たけびをあげながら、床に残ったバラ札を両手に握りしめて追加で窓からぶちまけた。爆音を流しながら諭吉をぶちまけるミニバン? 今まで乗って来た乗り物の中でも最強にクールなことは間違いない。

 空に解き放たれた諭吉は無様に道路へと舞い散り、アスファルトにへばりつくゴミと化していく。ああ、諸行無常。しょせん万物はゴミに転じるという教訓だろうか。私はその光景の虚しさに胸を突かれ、一筋の涙が頬を流れた。人差し指でそっとぬぐう。

「アンタ――情緒――どうなって――」

 司が何か言っているが、私はフゥと大きな胸を押さえてため息をつくのに忙しい。

 一段落して顔を上げると、前方に見慣れた海老原サービスエリアの楽しげな看板が見え始め、私は司の肩を叩いた。司は激しく肩をゆすってそれを振り落とす。

 失礼な。私が何をしたって言うんだ。

 だが彼はちゃんと合図を認識したようで、車が減速し、サービスエリアの進入路へと向かう。

 念のため他に後続車が無いか後ろを振り向いたが、今のところ怪しい車の影は無い。……もしかしたら、ちょうどよく事故か何かで通行止めになったかもしれない。不幸なことだ。

 でもその事実は、警察の尾行があったとしても足止めを食らってるということを示している。いやあ、何でか分からないが、私たちにとってはラッキーだった。うん。

 自分の裁量に心から満足した私は、いい加減耳がおかしくなりそうだったので音楽を止めた。急に静かになった車内に、司の疲れたような嘆息が落ちる。

 私は横目で彼を見た。心なしか肩が落ち、背は丸まり、すでに疲れているように見える。なぜだろう? 理由はよく分からないが、落ち込んでいる暇はないはずだ。これからお金を持って徒歩で逃げないといけないんだから。

 サービスエリアの前に広がる駐車スペースまでやってくると、平日の午後にも関わらず満車に近かった。海老原サービスエリアは観光地としても有名なので、こんなものだろう。ただ、さすがに家族連れよりも観光バスで来たと思しき外国人やリタイア後と思われる高齢者の姿が多い。

 私は運転席に体を寄せ、駐車スペースの奥の方を指さした。一般道への抜け道は入り口から見て一番奥にあるので、目撃者を出さないようにギリギリまで車で近づいた方が良いだろう。

 司は鼻で返事をすると、ゆっくりと車を奥へ進めた。片手でハンドルを握り、背もたれに深く体重を預けながら、もう片方の手でこめかみを揉んでいる。

 「やれやれ、このクソ仕事もここまでだ」とでも思っていそうだが、私は内心の憤慨を抑えきれない。お前の仕事を手伝ってやってるってのに。

 私はフンと鼻息も荒く前かがみになって、床でグシャグシャになった諭吉の残骸を拾い集め、ボストンバッグに詰め直した。何百万か道路のゴミにしてしまったが、とにかくありったけ詰め込んだので、ざっと……五千万くらいは入っていたはずだ。少なくとも残額四千万以上はあるだろう。

 顔を上げると運良く一般道へのゲートから二番目に近い駐車スペースが空いているのが見えたので、そこに車を停めるよう指示した。司は文句も無くスムーズに車を停める。車が停まるや否や私は素早く助手席のドアを開けた。ここからは、目撃されないよう急いだ方がいい。司の肩に触れ、よりゲートに近い助手席側から降りるよう促した。司は頷いてシートベルトを外し、ゴソゴソと私を邪魔な障害物のように跨ぎ、しっかりした足取りで外に降り立つ。

 私はすかさずボストンバッグを掴み、司に渡した。司はそれを受け取りながら、もう片方の手で無造作にバラクラバ帽を外す。その拍子に汗が飛び散り、すぐに雨と混じって落ちた。私が帽子を受け取ろうと手を伸ばすと、司にその腕を掴まれる。軽い力で引っ張られ、私も頭を半分出すことになった。

 もしかして、どっちがゲートか分からないのだろうか?

 私は司の斜め後ろを指さした。

「ゲートはあちらです。カメラを避けて、服装も早めにどこかで変えちゃって。お金があるからって生活を派手にして目立たないこと。それから――」

「おい、ちょっとは黙れないのか?」

 司はうんざりしたように目をすがめた。彼がやれやれと首を振ると、湿り気にも関わらずなぜかふわふわした髪が柔らかそうに揺れる。

「お前にも分け前を――」

「いりません」

 ボストンバッグを漁ろうとし始めた司に私がきっぱり言うと、彼は警戒するようにゆっくりと目を瞬いた。

「なぜだ?」

「私たちの計画は、私が共犯だとバレた時点でおしまいです。疑われた時に証拠になるようなものを持っているリスクは冒せません」

 司の頬が引きつる。冷たい目つきからすると、私の口ぶりを全く信じていないようだった。

「……それだとアンタに何のメリットもないだろ」

「……だから、犬派の大義的なアレだって言ってるじゃないですか」

 今更何を言ってるんだろう? この男は?
 私はイライラして鼻に皺を寄せた。

 司は対抗するように眉間に皺を寄せ、私を睨んだ。

「アンタが? 嘘だろ」

 私はショックのあまり凍り付いた。

 まさかまさか、信じていなかったのか。

 今ここに至るまで、私はお人よし過ぎる司の頭がちょっと弱いのかと疑っていた。犬好きという私の戯言を信じていなかったとは。

 いや、今はそんなことを考えている場合じゃない。私は唾と一緒に色々な思いを飲み飲んだ。

「……とにかく問答してる暇はないんです。早く行って」

「貸しを作るのは嫌だ」

 司は頑固に言い張る。私はイライラして自分の髪の先っぽを引っ張った。

「自分は作りまくってるくせに?」

「……アンタに貸しを作るのは怖いだろ」

 どういう意味だろう? ここまで世話になっておきながら、私の品行方正な行いにケチでもつけたいのだろうか?

 私はフンと鼻息を荒くした。ちょっと顎を上げ、威圧的に司を見下ろす。

「人間、いつでも助けられる相手を選べるわけじゃないでしょう? 銀行強盗に来た人にとやかく言われる筋合いありません」

 司は腰を引き、胸の辺りで潰れた蛙のような音を立てた。

「それは……すまないと思ってるが」

「私は私でメリットがあるからこれをやってるんです」

「犯罪の……スリル……か?」

 司はなぜか、恐れるように私の目を覗き込む。

 失礼にも程がある。私は地団太を踏むのをなんとかこらえた。

「私をイカレポンチか何かだと思ってるんですか?」

 司は唇を一文字にして何か言いたげに私を見つめたが、私は彼が次の言葉を繰り出す前に、湿ったバラクラバ帽をひったくった。

「話してる暇はありません。早く行ってください」

 司は唇をわずかに開けて、声になる寸前のような音を出したが、すぐに閉じた。

「……ありがとう、水守……さん」

 私は眉を上げた。一度だけ名乗った名前を覚えていたのかとちょっと感心しそうになるが、彼が私の素晴らしい胸元――にくっついた名札――を見ていることに気づく。

 司は複雑そうな一瞥を私に投げると、それきり背を向け足早に歩き出した。

 私もそれ以上彼の姿を見送らず、苛立ちと共にハァと息を吐く。手早くドアを閉め、運転席に座り直し、シートベルトを締めた。司の代わりにバラクラバ帽を被る。雨だか汗だか分からない液体で濡れていて気持ち悪いし、顔に繊維が刺さってチクチクするが、文句は言えないだろう。

 さて。

 ――とここで私は気づいた。

 あれ? 私――免許持ってないわ。

 どうしよう!?

 ドッと汗が吹き出し、心臓が暴れ始める。どうせ彼氏に運転してもらえばいいやと思って取得をサボったのが裏目に出た。

 計画ではこの後、私が高速道路を走り抜けて警察の目をくらませ、司が逃げる時間を稼ぐつもりだった。

 ここで私が断念したらほどなく私は警察に保護され、司は捕まり、秋田犬のまるは病気を治療されず、散歩にも行けず……。いや、まるはこの際問題じゃないだろう。混乱しているのだろうか。

 重要なのは私の栄光にケチがつくということだ。今後この体験を本に書くにせよ出世のネタに使うにせよ、司が逮捕されなければ嘘八百を並べ放題。指を切られそうになっただの、乱暴されそうになっただの、無理やり諭吉をばらまかされただの美味しいネタには事欠かないのだ。でも彼が逮捕されたら? 裁判などで私と司の証言がめちゃくちゃ食い違って面倒なことになるに違いない。私は私の栄光を楽に掴むために、なんとしても司を逃がさなければならないのだ――!

 見様見真似でキーを捻ると、エンジンが低い唸りを上げる。ハンドルに手を掛けてみたが、この後はどうするんだっけ……?

 確か、ギア。ギアをガチャガチャすればいいんだ。

 サイドのギアらしきレバーを握ったが、力を入れても動かない。なんで? パニックが喉元までせり上がって来る。

「クソっ! 動け……!」

 視界の端で、誰かがゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えた。それは一般人を装った警察かも知れない。私が一人で乗っていて人質の姿が無いことに気づかれたら終わりだ。せっかくのスモークガラスも近づいて覗き込まれれば役に立たない。最悪、犯人が一人でいると勘違いされて狙撃されかねない。

 命の危機を感じ、背筋に熱いものが走る。遮二無二アクセルだかブレーキだか分からないペダルを踏み込みギアを引っ張ると、何の奇跡か今度は動いた。と同時に車体自体が勢いよく滑り出し、グンと背中がシートに押し付けられる。私は驚き、アクセルだかブレーキだか未だに判然としないペダルをさらに踏み込んでしまった。

 ――どうやらアクセルだったらしい。急にスピードが上がり、駐車スペースの手前にあるカフェテリアがグングンと迫って来る。私は慌ててハンドルを切った。体が左に引っ張られ投げ出されそうになる。金切り声のようなブレーキ音が耳をつんざく。何がどうなったのか分からないが、出口らしき方向に向きを変えることに成功したようだった。周りから何か……悲鳴らしきものが聞こえてくるが、多分大丈夫だろう。衝撃はないから、まだ誰も轢いてないはず。

 何かがうるさいと思ったが、自分の息だった。ハンドルを握る指先が冷たくて、それなのに汗でベタベタして滑りそうだ。アクセルらしきペダルを踏み込んだが、もうどちらの足を動かしているのかも判然としない。このまま高速道路に出るという考えに血の気が引いて、身がすくんだ。どう考えても事故を起こしてお墓に熱烈ダイブを決める未来しか見えない。馬鹿なことは止めて、バラクラバ帽を取り去り、投降するのだ。もはや見知らぬ犬っころのことなんぞ知ったことじゃない。大丈夫、私は大丈夫――

 私はブレーキを踏み込んだ――つもりだった。なぜか車が猛烈にスピードを上げる。駐車されている白い観光バスの横っ腹がぐんぐんと目の前に迫る。私はいつの間にか叫んでいた――手前に投げ出される衝撃と共に目の前が真っ白になり、そして――

《続く》


いやあ、Dr.Stoneを見ながら書いていたら、そっちにも司(獅子王司)が出てきて何が何だか分からなくなりました。そういえば(こっちの)司の本名も獅子っぽい名前だった……ということはこっちの司も霊長類最強の男……?

次回予告:司、ライオンと素手で対決!?

山羊とのダンスバトルが控えてるので、続きは次の水曜日です。

ヤギ「ヘイメェ~ン!!」
私「後ろの連中を山羊と言うのは無理があるだろ」


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