自由か孤独か。それともその狭間で
「自由か、孤独か──」
朝、目覚まし時計の音だけが響く部屋。夜、迎えてくれるのは静寂と黒猫のまどろみ。好きなことを好きなだけできる時間。これを幸せと言うべきか、それとも寂しさと呼ぶべきか。
ここのところ海外のネット小説を読みふけるのに嵌まっているのだが、その中で以下のような引用に出会った。フランスの作家ミラン・クンデラは、自身の著書の中で以下のような言葉を残している。
意訳すると、
「朝、誰もあなたを起こさず、夜、誰もあなたを待たず、なんでも好きなことができるとき、それを何と呼ぶ? 自由か、それとも孤独か?」
といった意味になる。
何とも身につまされる話だった。
いい年をして一人で過ごしていると、無限と思われるような自由があるものの、一方でその姿は世間的には「孤独」なのかもしれない。
一人で食事をし、一人で映画を観て、一人で旅行に行く。休日は誰にも邪魔されずに、好きなだけ本を読み、好きなだけゲームに熱中する。そう、確かに私は「一人」だ。
しかし、不思議と私は一人でいるのが好きで、いわゆる「孤独感」を感じない。何日も人と接しなくても、寂しいと思うことがほとんどなく、むしろ圧倒的な自由と安全の感覚に包まれている。一人でいる時間こそが、私にとって最もリラックスでき、自分自身でいられる貴重な時間なのだ。
ところで、自我の定義を「人とのやり取りにおいて表出するもの」としている人たちがいる。
彼らにとって「人と接しなければ自分もない」のかもしれないが、私にとっては逆で、むしろ「人とのやり取りにおいて表出する思いや感情」に自分自身が捻じ曲げられる感覚がある。
「でも、本当は寂しいんじゃないの?」
そう聞かれることもある。常に人といるのが自然な人々にとって、「孤独=寂しい、辛い」ということに直結するようなのだ。
確かに、そう言われると、心の奥底に何かが引っかかるような気もする。もしかしたら、私だって、心のどこかで誰かのそばにいたいと思っているのかもしれない。
だけど、「人と一緒に居る不自由」を思うとゾッとして首を横に振りたくなる。誰かの顔色を伺い、自分の意見を押し殺し、相手の期待に応えようと無理をする。そんな窮屈な毎日は、想像しただけで息が詰まりそうだ。
最初の問いを、反対にするとどうなるだろう?
「朝、誰かがあなたを起こし、夜、誰かがあなたを待ち、好きなことがなんでもできるわけではない時、それを何と呼ぶ? 支配か、それとも幸せか?」
この問いに対する答えも、きっと人それぞれだろう。
だけど、少なくとも私にとっては、「起居すらままならないこと」を幸せだとは思えない。自分の行動を逐一監視され、干渉され、束縛される毎日に、一体どれだけの価値があるというのだろうか?
もちろん、人と関わること全てが不自由で窮屈なものだとは思わない。心から信頼できる相手と過ごす時間は、かけがえのない宝物だ。
それでも、私は「一人」であることを選ぶ。それは、私が「孤独を愛する奇特な人間」だからではなく、ただ単に、「一人である自由」の方が、「誰かといる不自由」よりも、はるかに価値があると信じているからだ。
あなたはどうですか?
「朝、誰もあなたを起こさず、夜、誰もあなたを待たず、なんでも好きなことができるとき、それを何と呼ぶ? 自由か、それとも孤独か?」
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