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【中編小説】乳は銃より強し。(4/4)完

最初の話 前の話

忙しい人のためのここまでのあらすじ

銀行員の水守和歌みなもりわかは、ある昼下がり銀行強盗に遭遇。たった一人で大男、つかさに人質に取られた彼女は、果敢にも自慢の乳を使って強盗に取り入った! 素晴らしい乳のパワーでタッグを組んで強盗をやり遂げた二人。司は逃走し、和歌は警察を引き付けるために一人逃走車で走るが、不運にも追突事故を起こしてしまい――!?


 闇の中、チラチラと瞬く光が室内を照らしている。

 私は心地よいソファに身を預け、片手でゆっくりとワイングラスを回していた。

 唯一の光源であるテレビモニタに映っているのは、厳かな記者会見の映像だった。

『銀行強盗さん。どうか、どうか改心して、警察に出頭してください。私のケガのことは恨みません。ただ、当行をご利用になられる皆さんの安心安全のために、どうか罪を償ってください』

 画面の中の女が肩を震わせながら落涙する。
 彼女は頭を包帯で多い、顔にいくつもガーゼを貼り付け、ギプスで固定された左腕を吊っている。なんとも哀れな様子だった。

 パシャパシャ、パシャパシャと拍手のようにカメラのシャッターが切られ、太字でテロップが躍った。

『人質となった三ツ星銀行水守さん涙ながらの訴え! 犯人は今!?』

 私はフンと鼻を鳴らし、リモコンを操作してテレビの電源を切った。

 まぁ、テレビ映りはまぁまぁだろう。

 結局のところ、事故を起こして良かった唯一のことは『ショックで細かいことは覚えていない』と言い張れたことだ。

 一カ月前、私は銀行強盗事件に巻き込まれた。最後は犯人の指示で無理やり車を運転させられて、停車していた観光バスに突っ込み、車は大破・炎上。警察に救助された。

 ――ということになっている。

 もちろん、警察も私の話をそのまま信じたわけではない。やっぱり仕掛けられていた盗聴器の記録を聞かせられ、EDMの合間から聞こえてくる不気味な哄笑(諭吉ハイの時だろうか)はなんだ? と聞かれても「分かりません。恐怖で気がおかしくなっていたのかもしれません」と知らぬ存ぜぬを通し抜いた。我ながら怪しいにも程があるだろう。

 けれど警察がいくら私の背後関係を洗おうと私の動向を調べようと、ホコリの一つも出てこない。当たり前だ。私は司と事前に知り合いだった訳ではないし、彼から1円の分け前も受け取っていない。もし私が彼とグルだとしたら、『何のメリットも無いが突然初対面の銀行強盗に加担した』ということになる。

 まぁ、真実はそれが一番近いのかも知れないが、私はあくまで無辜の被害者を装っているし、最後まで演じ切るつもりである。

 そんなわけで私は無罪放免になり、全治3か月のケガの手当も無事労災が下りた。銀行強盗って労災認定されるもんなんだと一つ学びになる。

 とにかく、意識を取り戻した私が最初にしたことは上司に掛け合い、例の会見を開くことだった。大けがをした唯一の被害者が、顔出しして涙ながらに犯人に出頭を訴える美談。しかも、あくまで一銀行員として銀行の名誉とお客様を守ろうという姿勢を前面に打ち出している。

 この会見から半年が経つ頃には、『三ツ星銀行の水守和歌』は一躍、ちょっとした国民のヒロインになっていた。痛ましいケガや犯人よって命を脅かされた恐怖の体験談を勇気を持って語る姿が同情と共感を呼んだみたいだ。

 今の私は広報に異動し、銀行のPRや凶悪犯罪のコメンテーターとして引っ張りだこ。そろそろ本の執筆も終わる。『心臓とお金の天秤』というタイトルのノンフィクションだ。それは傷ついた悲しい銀行強盗と、彼を説得しようと試みる心優しい銀行員の美しい物語になるだろう……。

 私は目を閉じてハミングした。ワイングラスを回し、香りを嗅ぐ。レギュラー番組が決まったことを祝うために買った二十年物のソーヴィニヨン・ブラン。フルーティーかつ、深い重みのある香りが鼻腔の奥まで沁みていく。わずかな量を口に含むと、より濃厚な香りが喉から頭全体を駆け抜けた。

 ピンポーン

 まるで私の栄達を祝うかのようなタイミングで良くインターホンが鳴る。私は濃紺のナイトガウンを手繰り寄せて立ち上がり、電気をつけて、受話器を取った。配送業者だったので快くマンションの正面入り口を開いてあげる。しばらくして玄関先に届けられたそれは白い段ボール箱だった。送り元は三ツ星銀行広報部。

 首を傾げてしばらく考え、ああと思い至った。

 私宛のファンレターが溜まりに溜まるので、ある程度溜まったら自宅に郵送してもらうよう、手配していたのだった。

 まぁ、酒の肴くらいにはなるか。

 私はそれをソファの前に置いて中身を改め始めた。

 パンパンに膨らんだ分厚い封筒から、「応援してます!」とだけ書かれたハガキまで。技術的にはただの紙ではあるが、それは私の自尊心を心地よく膨らませてくれる。お酒も手伝っていい気分になり、私はケタケタと笑いながら読んでは投げ、読んでは投げと散らかした。

 半分ほど箱を空にした後、底の方から持ち上げた厚手の白い封筒に気を取られる。紙にあるまじき重みを感じるのだ。

「うん~?」

 私は封筒を顔の横に持ってきて、カサカサと振った。中に入った何かが鈍い動きで追従する。明らかに紙以外のものが入っている。

 危険物だったら嫌だなと思いながら姿勢を正し、送り主を見ると、無記名だった。代わりに何か……イラストのようなものが描いてある?

 それは黒いボールペンで描かれた、つぶらな瞳の犬のイラストだった。

 何か、嫌な予感がするが……。

 ゴクリと唾を飲んだ。急に心臓が激しく主張を始める。

 私が想像している『あの人』が、最近の私の活躍を見て怒りのあまりプラスチック爆弾でも送り付けて来たのだろうか? 思い込みの激しいヤツなので、ありえないことじゃない……。

 封筒を臭ってみたが、火薬のような香りはしない。電気に透かしてみたが、封筒が二重になっているようで、固さと厚みのある長方形の何かだということしか分からなかった。

 しばらく封筒を見つめ、好奇心に負けた。恐る恐る封を切り、なるべく顔から封筒を遠ざけて持ち、コーヒーテーブルの上に中身を落とす。

 それはキラリと鈍い光を放っていた。金色の薄く小さな板。

 恐る恐る顔を近づけてみると、金のインゴットだと分かった。GOLD 5gと刻まれている。

 しばらく待っても爆発しないので、私は緊張した息を吐いて再びソファに深く身を沈めた。インゴットを摘まんで、しげしげと眺める。

 当然だが、『和歌ちゃん、大好き!』などと刻まれてはいない。見た感じしっかりしたところで鋳造された正規のインゴットに見えた。5gだと、市場価格は8万から10万の間くらいだろうか。

 これだけ? と思い封筒の中を改めたが、それ以外には何も入っていない。消印は千代田区。ふーん。

 さてさて、送り元に犬のイラストを描き、金のインゴットを送って来るファンか。誰なんだろう?

 私はインゴットをテーブルの上に放り出し、小さく笑い声を上げた。

 金品を贈られると贈与税の関係で厄介になりかねないが、まぁ、5gのインゴット1枚くらいは特に問題ないだろう。誰が送り主かなんて私に分かる筈もないんだし、受け取って問題ないはずだ。

 彼と愛犬は元気にやっているのだろう。別にどうでもいいが、いいことだ。

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 予想と違ったのは、贈り物が一回だけで終わらなかったことだ。

 それは月末頃になると、決まって送られてくるようになった。ただの直感だが、律儀に送り主自身が汗水たらして働いたお金で購入しているような気がしている。お給料を貰ったらその足で買いに行き、封筒に詰めてポストに投函するのだ。

 そんな様子を想像すると胸が躍った。封筒に描かれた犬のイラストは、媚びるようだったり、ちょっと怒っているように見えたりと何かの感情を反映しているようにも思え、毎回見るのが楽しみだった。

 (もしかして、私がテレビで事件についてあることないこと喋ったことと何か関係があるのだろうか?)

 12月にサンタ帽をかぶった犬のイラストが描いてあった時は、思わずクスクスと笑ってしまった。広報部の同僚に『何かいいことがあったんですか?』と聞かれるほど上機嫌で、慌てて誤魔化さなければならなかったほどだ。

 そのイラストからだんだんと元気が無くなって来たのはいつの頃からだろう。ちょっと舌を出して苦しそうな犬、何かを頑張ろうと決意している犬、悲しげに眠っているように見える犬。何かあったのかな? と気にはなったが、確かめる術もない。

 気が付くとその小さな贈り物は私のドレッサーに積み上げられ、数えてみると、30本と少しにもなっていた。

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「やーきゅーう―ぅすーるーならーっ、とくらぁ」

 人通りもない真夜中の住宅街。私はランダムな歌を口ずさみながら、道路の真ん中を闊歩していた。買ったばかりのフェラガモのワンピースをヒラヒラと揺らし、片手にストロングゼロの缶を持ち、もう片方の手にエルメスのハンドバッグをぶら下げている。靴は背伸びして買ったルブタンのレッドソール。いい女はルブタンだって昔から決まっているのだからしょうがない。

 でもいい恰好をしたって惨めさは変わらない。

 今日は久々に卓也とのデートだった。

 都内でも有名な三ツ星レストラン。美味しい食事にロマンチックな夜景。忙しさにかまけて離れた距離を埋める、完璧なデート。

 彼とは付き合って3年以上経つ。これで期待しなかったら嘘でしょう?

 でも、正直言って結婚したいのかどうかは分からなかった。仕事はとても順調で、私はタレント事務所に所属を移して芸能活動をしつつ、犯罪被害者のNPO法人を作って日夜忙しく日々を過ごしている。もちろん家庭に入ったりは出来ないし、したくない。スケジュールは不規則なので結婚してもすれ違いの毎日が待っているに違いない。

 それに、華やかな芸能界では良い男に事欠かない。結婚したらブランディング的にももう遊べなくなるし、そしたらとてもつまらないような気がする。

 そんな気持ちが悪かったのだろう。彼が指輪を差し出してくれた時、そこに嵌まったダイヤモンドを見下ろし、喜ぶ前に値踏みして『ちょっと安いな』と思ってしまったのだ。まずいことに、それが卓也にも伝わったようだった。彼はサッと表情を変えて立ち上がり、大股でレストランを出て行った。もちろん追いかけて、その手を掴んだ――彼の手は冷たく石のようだった。

 彼は振り向き、私を睨みながら言った。

『君がどれだけワガママでも、僕のことを構わなくなっても良かったんだ。君のお尻がどれだけ悲しくても、それでも許せた。愛してたからだ』

『尻て。いやもう、話を聞いて』

『でも僕のことを見下すなんて。それは無関心よりも痛いよ。君は自分が偉くなったと思ってるんだろう? ちょっと世間にもてはやされるようになったから? でも君が何人に薄っぺらく愛されようと、君は変わらない。昔からいつも欲望に忠実で、浅ましくて、泥臭い』

『そんな言い方しなくても――』

『君がこれから先何人の男と付き合おうと、僕より君を愛せる男はいないよ。後悔しながら僕なしで生きて行けばいい』

 卓也は震える声で言って、私の手を振り払った。

 ――そして今に至る。

 私はフラフラと歩きながらストロングゼロ缶をぐびぐびと飲み、歩きづらいピンヒールを脱いで裸足で歩き始めた。

 マンションまでどうやって帰ったのかも曖昧だった。人間にも帰巣本能があるのだろう。多分。

 コンシェルジュが見て見ぬフリをしてくれるエントランスを抜けてエレベーターを使い、自室の方へ歩いて行くと、玄関ドアの付近に黒い影がわだかまっていた。

 目をこする。酔って幻覚を見ているのだろうか。

 ペタペタと近づいてみると、どうも幻覚では無さそうだった。浅黒い肌をした背の高い男がしゃがみこみ、顔を足の間に挟み込んでうなだれている。横には大きなスポーツバッグが置かれていた。

「……司さん?」

 驚きのあまり手に持った缶を握りつぶし、へこませてしまう。

 彼はグレーのタンクトップの上に黒いパーカーを羽織り、カーキのサルエルパンツと黒いグルカサンダルを履いている。

 司はゆっくりと顔を上げた。充血した目に涙がにじみ、一本通った鼻筋の下が鼻水で光っている。カールした茶色い髪が乱れて額に張り付いていた。呆然と見ていると、ズ、と鼻をすする音がする。

「何をしに来たんです?」

 私はそれ以上近づかず、じっと彼の表情をうかがった。

 彼はカメラに映っただろうか? エントランスをどう通り抜けたのかは分からないが、多分、映っただろう。もしそうなら、私は、彼がかつて出会った銀行強盗の犯人だと気づいた時点で通報する義務があった。

 司は喉を詰まらせ、口を押さえて何度か喉を上下させた後、小さな声で言った。

「まるが……死んだ」

 私は眉をひそめた。
 そのニュースは全く嬉しくない。

 私はゆっくりと司の前まで歩いて行くと、ひざまずいて、缶チューハイとバッグを床にカツンと置いた。司は鼻をすすりながら私の動きをじっと見つめている。

 数秒間、息を止めて彼の顔を見つめた。何かをこらえるように眉根をぎゅっと寄せて、その瞳は濡れているが、虚ろでショック状態に見える。

 私は鋭く息を吸って、彼の背中に手を回した。それは熱かった。司の体が一瞬強張り、それから弾かれたように腕が私の背中に回る。背中の服の生地が引きずられて、彼が爪を立てているのが分かった。彼は私が命綱であるかのように抱きしめていた。私もそれに応えるように腕に力を入れる。

 司が封筒に描いてくれた可愛い犬はもういない。もうあれを見て笑うこともないのだろう。それを思うと胸の奥に引っかかれたような痛みが走る。歯を食いしばり、司の肩のくぼみに額をこすりつけた。

 いや、いや。落ち着かなきゃ……。

 私は何度か激しく息を吸った。大丈夫だ。落ち着いて。

 3年前の事故の影響で、感情が高ぶると過呼吸の発作を起こすようになっていた。最近は良くなっていたが、ここ数時間の感情の起伏は大きすぎたのだろう。しっかり吐くことを意識しながら、ゆっくりと呼吸する。皮肉にも司の体温や心臓の音に耳を傾けると心が落ち着いていくのが分かった。

 私は彼の肩に優しく触れて、体を離した。

 司の虚ろな様子は少し改善され、今は少し呆気に取られているようだった。

「何があったんですか?」

 司は何かを思い出すように視線を上向けた。

「アンタのおかげで、まるに手術を受けさせることが出来たんだ……」

「手術はうまく行ったんですか?」

「ああ。難しい手術だったが、がんを切ってうまく処置できた。それから順調だったんだが……2年と少しで再発した」

「医者が悪かったんですか?」

 私は目を細める。

 そもそも、医者が一千万という高額な治療費を要求しなければこんなことにはならなかったのだ。

 だが司はかぶりを振った。

「違う。そもそも犬の胃がんは転移も再発もしやすいんだ。3年近く何もなかったのは奇跡らしい」

「……儚いものですね」

 私はうつむいた。
 司はためらいながら頷く。

「定期的に検査には行ってたんだが、再発が見つかった時にはすでに手遅れだった。飼い主と話し合って……俺が最後まで面倒を見る約束でまるを引き取った」

 なら、まるは最後は司の犬だったのだ。
 それはまるにとって良かったことだろう。

「まるは頑張った。でもまるはすでに13歳だったし、これ以上の治療は出来ないと医者に言われた。近頃じゃ、まるはエサを食べても吐いてしまって、あんなに大好きだった散歩にも行けなくなって、毎日辛そうで。これ以上苦しむ姿を見ていられなかった……それで……」

 司が声を震わせて言葉を濁したので、私は彼の腕の辺りをさすった。彼は唇を噛み、「ありがとう」と小さく口にする。

 私はそっと尋ねた。

「……まるは最後……安らかでしたか?」

 司はゆっくりと瞬きした。涙があふれ、彼の頬を滑っていく。

「眠るようだった」

「あぁ……」

 司は大きく息を吸い込み、皮膚の色が変わるほど強い力で涙をぬぐった。

「でも、俺は、今でもそれが正しかったのか分からない」

 司は掠れて裏返った声でそう言うと、頭を抱えてしまう。私は一定のペースで彼の腕をさすった。司は喘鳴に似た音を出し、動かなくなった。

 数分間は沈黙が続いた。
 司の選択について誰かが横から何かを言うのは間違っているように思える。ただ、一番側にいてまるを気にかけていたのは彼だろう。だから、それは彼の権利だった。

 私は気を取り直し、口を開く。

「どうしてここに?」

 司はぼんやりと顔を上げた。

「アンタは……まると俺の恩人だ。だから最期を伝えておきたかった」

 私は一笑に付す。

「恩なんて。私は私で恩恵を受けてる」

 司は首を振り、辛抱強く続けた。

「それでも、アンタがいなければ俺はまるに別れを告げることもできなかっただろう。その後何が起きてもそれは変わらない」

「……嫌になるぐらい律儀」

「よく言われる」

 司は今日初めて笑みに似たものを顔に浮かべた。

「アンタは嫌になるぐらい頑固だって言われないか?」

「まぁ、それは複雑です……」

 私は床に置いた缶チューハイを手に取り、司の横に腰をずらし、壁に背中を預けた。司は私を横目で見ると、喉の奥で笑った。

「ついに、アンタも何かあったのか?」

 私も半目になって笑う。

「それはまた別の話です。今日はとりあえず……まるに」

 私は生ぬるいストロングゼロを一口飲むと、司の方に突き出した。

 司はそれをぼんやりと見つめた後、受け取ってグッと煽る。それから両ひざをついて体ごと私に向き直り、真剣な顔をした。

「今日は……まるの件の他に、挨拶に来たんだ」

 私が首を傾けて先を促すと、彼は目を閉じて深呼吸してから続ける。

「俺……自首することにした」

 私は片方の眉を跳ね上げた。

「自首? でも……このまま静かにしていれば捕まることはないのに」

「いや……」

 司は緩く首を振り、軽く唇を噛んだ。

「どんな事情があっても、銃を持って人を脅したんだ。アンタにしたことだって……まぁ……アンタがテレビで言ってることは八割嘘だが、少なくとも身動きできないようにして散々脅したのは事実だ。罪は償いたい。まるのためにも」

 私の喉からしゃっくりのような醜い音が漏れた。

「でも……私の証言のせいで本来の罪に色んな余罪がついちゃうかもしれませんけど……」

 いくら私と言えど、愛犬を亡くしたばかりの男に対してその仕打ちは憚られる。なおかつ、私の証言と司の自供が食い違った時、裁判で争うのはちょっと面倒くさい。

 司は「あぁ」と諦念に満ちた顔でうなずいた。

「構わない。代わりに……一つだけ俺の頼みを聞いてくれないか? アンタにしか頼めないことなんだ」

 私が反応する間もなく、司の手が私の肩を強く握る。顔が急に至近に近づき、涙で潤った赤茶色の瞳が間近で煌めいた。彼の唇は厚みがあり、柔らかそうだった。

 心臓が急に調子を外し、顔がじんじんと熱くなる。私はなんとか唇を開いた。

「ああ……ええと、そうですね……でも、いいんですか?」

「受け入れてくれるだろ?」

 ごくりと唾を飲む。私は激しく瞬き、司の口元に視線をちらつかせた。
 まあ、技術的には現在フリーだった。何か起きても何ら問題ない。

 私は咳払いすると腕を寄せて胸の谷間を強調し、体を近づけた。

「まぁ……どうしたら断れるでしょう?」

 司の視線が吸い寄せられるように私の胸に落ちたが、それはほんの一瞬だった。彼はパッと私から離れると、振り向いてスポーツバッグを捧げ持った。

 司はそれを私の方に向け、犬歯の尖った白い歯を見せて満面の笑みを浮かべた。苛立った皮肉な笑みでも凶悪な笑いでもない、さわやかな笑顔である。私は驚き、目をぱちくりさせた。

「ありがとう! アンタは本当にいいヤツだ……!」

 司は弾んだ声でそう言うと、私の胸にスポーツバッグを押し付ける。混乱した私が視線を落とすと、そこには……。

 二匹の……子犬?

 彼ら(?)は私と目を合わせ、舌を出してハァハァと興奮している。

 私は口をポカンと開けて彼らと見つめ合うしかない。

 影が落ち、顔を上げると、いつの間にか司が立ち上がっており、私を笑顔で見下ろしていた。

「まるの忘れ形見だ。可愛い方がさんかくで、凛々しい方がしかくだ」

「えっと……?」

 司は、「ハハハ」と爽やかな声を上げながら素早く階段の方へ歩き出している。

「俺が刑務所にいる間、頼んだからな」

「ちょっと――!」

 私は追いかけようとしたが、スポーツバッグが重くて立ち上がれない。不意に揺れたせいか、「キュウキュウ」という切ない声と、スポーツバッグの内部をカリカリ引っ掻く哀れな音が聞こえて来た。

 私は呆然と司の背を見送るより他なかった。

「嘘でしょう……?」

 いくら目をこすっても、膝の上の温かさは消えそうになかった。

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「ワンッ!」「キャンッ!」「カフッ」

 ふらつきながらベッドから降り立つ。ぼんやりとカーテンを開けると、朝日が目の奥に突き刺さるようだ。頭を三秒ごとに鈍器で殴られているような鈍痛が襲い、晴れ上がった目蓋は何度こすっても霞んだ視界を提供している。

 リビングに出ると、間に合わせの段ボールの中に子犬が二匹鎮座している。私を見ると「キャンキャン」と甘えた声を上げた。スポーツバッグの中二入っていたドライフードをあげて、司の家から持ってきたらしい毛布でくるんでやると、彼らは満足した様子でゲップをする。

 ああ、夢じゃなったのか……。

 一瞬、犬たちを保健所に連れてったろかいという思いが脳裏を過ぎるが、しかしそうなれば、後で司がルンルンで私を殺しに来るだろう。成犬一匹のために銀行強盗をする男である。子犬二匹のために何をするか想像したくもない。

 あまりの疲労感と激しい頭痛に負けてソファに崩れ落ち、死にかけのセミのような活動量でリモコンを引きずりよせ、テレビをつけた。

『3年前に三ツ星銀行で起きた強盗事件の犯人が今朝未明、自首したとの情報が入りました。消えた5000万の行方、そして被害者でありマルチタレントとして活躍する水守さんは、今どのような心境でいらっしゃるのか。その動向に注目が集まります――』

 ああ、アイツ、本当に自首したんだ。ということは少なくとも数年は刑務所だな。

 彼氏と別れた直後に司と再会したことは『何か』かもしれないと思ったが、結局のところ、男たちはいつも私の上を通り抜けていくのだ……なんてね。

 私はテレビを消した。

 ピンポーン

 スマホを見ると、通知をスクロールしきれない数の不在着信が溜まっている。

 何年後か知らないが、司が犬たちを迎えに来たら、今度は私の『お願い』を聞いてもらうのも悪くないだろう。それを申し出た時の彼の顔は少しだけ楽しみかもしれない。

 とりあえず、記者をかいくぐって犬用のケージやらトイレやらを買いに行く方法を考えるところから始めよう。資金は彼が送ってくれたインゴットを充てれば十分だろう。

 ああ、今日からまた忙しくなりそうだ。

《終》


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