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止まっている時間

鬱になって、時間が止まっているとよく感じる。鬱になる前と後、という風に考えることも多い。それ程、この病は自分を変えてしまったと思う。
 やっぱり出来なくなったことが多い。体力が回復しづらいから、休みの日にどこかへ行けなくなった。前は野球観戦にもよく行っていたし、近場でも特に何の目的もなく泊まりの旅に行ったりしていた。考えないで色々なことが出来ていた。色々なものを見たいとも思っていた。美味しいものを食べに行き、お酒を飲みながらゆっくり話すことも好きだった。アクティブでは全然ないけど、それなりに動いていた。
 五年前に鬱を発症した時、はじめは背中の痛みと身体の怠さ、仕事中に椅子の上で揺れている感覚が続くというものだった。それが鬱なのかよく分からないまま駅前のクリニックに行くと、鬱の指数が高いと言われた。でもその時は気持ちの落ち込みはそれ程なかったので、とりあえず薬を貰えればいいと漫然と通院していた。正直今もそうなのだけど、症状を治したいと前向きに思えていないのもあった。仕事は辛かったけど、強迫性障害と社交不安で何年も働けていなかった自分に出来る仕事が見つかった気がして、居場所を失いたくないと無理していた。
 それが段々鬱が強くなってきたのが、はじめの病院を行くのを止めて次のクリニックに行った三年くらい前のこと。もしかしたら抗うつ薬を飲み過ぎて躁転したのかもしれない、そう感じる位気持ちに波が現れだした。この時も漫然と通院していた。主治医は優しい人だったけど、心を開くところまでいけなかった。最後の診察の時に、主治医は私の身体がひどく疲れているのを見かねたのか、身体の力を抜く施術を始めた。私はそれが怖くなった。その時、自分は楽になりたい訳ではなかったからだ。自分が求めていたのは楽になることよりも、受け止めてもらうことだった。その時はだからアドバイスもほとんど耳を通過していた。どんな話をしていたんだろう、今はそう思ったりするときがある。
 それから今のクリニックに転院して二年、昨年が一番鬱が強かったと思う。ある特定のものを見ると、強い負の観念が頭を蹴ることがずっと続いた。今はその特定のものを見ても落ちることは無くなったので、あれは鬱特有のものだったんだと思う。でも今も仕事中にずっと頭を占めていたりする観念は、苦しさが塊になって出てきてるのかなと想像する。主治医にある時「あなたは苦しいんだね」と言われたとき、「そうですね、今は」と応えると、「じゃあ苦しくない時はあったの?」と聞かれた。私はすぐさま、無いですと返していた。
 前回も書いたけど、鬱は自分にとって、苦しさの現れなのだろう。だから苦しさに目を向けていく必要がある。でもそのエネルギーさえ無いのが現状だ。何かをしたいと思う気力が枯渇しているから、動きの少ない世界にずっといて、時間が止まったようになっている。ただ、私はある部分ではそれを望んでもいる。自分の世界を保つことを。でもこの止まった時間を動かしたい気持ちもある。その矛盾が今の自分で、病とともにある日々がどこまで続くのかなと思う。止まっている時間が少しずつ動き始めたとき、私は悲しみのために涙を流すだろうか、それとも歓びの為に泣くだろうか。今はただ想像だけをする。どんな自分でも愛せたらいいだろうなと思う。何かをしなきゃならないなんてこともない、そう自分に言い聞かせる。色んな声が内側から静かに、確かに聞こえてくる。その声に、もっと耳を傾けていこう。その先に、きっと自分の道が続いていくから。
 
 

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